千旦林村の助郷割当ての実際を、安政六年(一八五九)四月の二条番衆上下通行を例にしてとりあげてみよう。
千旦林村の助郷高は五五二石(Ⅵ-112表)である。枝村の中新井村、辻原を含めて、山村甚兵衛(木曽方)・千村平右衛門(久々利方)・山村八郎左衛門(三百石方)の入相知行の村である。従って千旦林村は知行別にそれぞれ庄屋などの村役人がいて、年貢上納・諸役の仕事をしている。助郷の割当は村負担として課せられてくるから、入相知行所である千旦林村のような場合は、村内の知行別の割当てが余分な問題として解決しなければならなくなる。こうした村全体の窓口となったり、さらに村内に対しては知行主は異なるが、さまざまの行政上や、生活上の問題を協議し執行する役人として当番庄屋を置いた。このことは茄子川村・落合村も同様であった。助郷割当でもこのルートで伝えられている。問屋(助郷総代会所)→千旦林村当番庄屋→知行所別庄屋の順である。このなかで当番庄屋(千旦林村三百石方庄屋)→知行所別庄屋(中新井村久々利方庄屋)への連絡依頼文書によると、次のようである。