(1) 一定期間つづけて人馬出勤をしなければならなかった。
例えば、明和二年(一七六五)に挙行された「御神忌大法会(日光一五〇年大法会)」のため、公家衆が多く中山道を下った。その時において助郷一三か村のうち、手金野村について、助郷負担をまとめたのがⅥ-120表である。
Ⅵ-120 明和二年御神忌(一五〇年)大法会助郷割合(手金野村)
これによると、同年三月一八日から五月二六日までにわたって、合計五三〇人を負担している。
また、享和四年[文化元年一八〇四]楽宮下向では、江戸方迎え役人が八月二一日馬籠宿泊りで上京するにあたり、落合宿へ出勤で高百石について、人足一三・五人割で負担したのにはじまり、九月九日楽宮中津川宿泊りで下向までの間に、助郷一三か村で人足八〇〇人、馬八三匹が出勤している。これではとても不足なので、尾張徳川家負担で人足二〇〇〇人、裏木曽三か村負担で六〇〇人、加茂(七宗)などより一〇〇人、計人足三五〇〇人が出勤して、この大通行の継立を遂行している。このように大通行は、当日の出勤人馬が多いだけでなく、その前後で一か月余に及んだ。このなかでも特に有名なのが和宮下向であるが、これは次節にゆずる。
(2) 大通行の場合は、上り(落合→大井)、下り(中津川→馬籠)とも、両宿助郷継立区間以上の持ちつぎをすることが多かった。前記の楽宮、天保二年(一八三一)九月の有姫下向、嘉永二年(一八四九)壽明姫下向、それに文久元年(一八六一)和宮とも、中津川宿より野尻宿まで勤めている。
(3) 大通行の場合、人馬不足で雇立てをしなければならない雇銭のために増銭になったり、連絡・管理のための雑用負担も増した。
延享四年(一七四七)四月二九日、大坂御番酒井飛驒守が落合宿泊りで通行の節、駒場・手金野・千旦林・茄子川の四か村が、苗木領川北八か村分の雇馬として二四匹を、一匹四〇〇文で雇い入れている(古田家文書立教大学蔵)。この賃銭をめぐって四か村と宿側が争っているが、それは別としても、馬の不足もあってか、大通行の場合に馬雇立てはよくみられる。天明七年(一七八七)の川北八か村定書(古田家文書、御用伝馬録立教大学蔵、県史史料編近世七)の中に、雇いで人足を出す場合は、八か村で勤込みとするとしているが、雇馬については「何方にてなりとも雇申すべく候」としていることは、馬の不足のためであろう。文化一〇年(一八一三)には、尾張徳川家上国と日光門主の通行があったが、この通行では雇人足一人四八四文、雇馬一匹一貫一六四文としている(御用伝馬録県史・史料編近世七)。文化一二年(一八一五)は、日光神忌二〇〇年大法会の年で、三月から四月にかけてその通行がつづいた。この時も、川北八か村では「助郷残らず出勤 馬は雇立」としている。嘉永二年(一八四九)は、壽明姫、長崎奉行、加賀前田家など、大通行の続いた年である。このための増銭として、次のような雇賃銭をあげている。
雇賃一人 三〇〇文 中津川宿
雇馬一匹 四四八文 〃
雇賃一人 二二四文 落合宿
雇馬一匹 五四六文 〃
また、この年は大通行のために雑用費として、福岡村では銭一一貫三四八文(一人当り銀一匁)、それに飛脚賃なども入用で、「当年は大変の掛り銭 近年まれなる事に候」としている(御用伝馬録古田家文書)。