農繁期と助郷

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中山道沿いの農家に伝えられている言葉に、「街道の垢をなめる」という言葉がある。これは、中山道往来の旅人相手に、街道近くの百姓が"現金稼ぎ"をすることを意味している。例えば草鞋などの藁製品、食べ物、荷物の運送などを行って、副業として収入をあげたのである。また、大名通行で相対継ぎの多い場合も収入になったであろう。こうした農民の生活を潤す一面もあったが、農業多忙期と助郷出勤の最盛期がかさなることがあり、この面では農民にとっては悩みであったであろう。
 中津川・落合両宿の助郷ではないが、明和七年(一七七〇)飯沼の宮地日記より当主藤四郎が助郷出勤として記しているのは、次の六回である。
 
  四月一九日  出馬当り 大井へ参り
  四月二八日  馬人足当り
  六月 二日  市助(藤四郎下男)出馬
  八月一二日  忠八(藤四郎下男)出馬に参
  八月 晦日   市助出馬に参
  九月一〇日  出馬当り 甚之助を米壱升に銭六四文で頼遣し候 百文渡し
 
 これらの六回が、藤四郎家に当った助郷のすべてか、どうかは分からないが、一応藤四郎が日記に記録した数である。
 藤四郎家(庄屋・組頭級の家)では、六回当りのうち四回まで本人ではなく、下男または雇人を出勤させているから四月から九月にかけての農業多忙期でもあまり支障はなかったかもしれないが、どの農民も藤四郎と同じようには考えられない。そこで、農事暦とのかかわりで助郷出勤をみてみると、
 毎年、四月一四日に挙行される日光東照宮の大祭に、朝廷から派遣される日光例幣使は、四月五日または六日に、中津川宿に宿泊している。中津川宿本陣に宿泊した人数を本陣宿泊記でみると、一六~二五人である。この頃は八十八夜が過ぎて、沼田の田おこし、田すき、馬屋の肥出し(堆肥)などが行われる時期である。
 安政六年(一八五九)の「日比野村差出人馬帳」(一月~七月まで前半分・中津川宿分)によると、この四月六日に人足六〇人が助郷出勤している。
 またこの四月上旬~中旬にかけては、二条御番の上り、下りもあって、前記「日比野村差出人馬帳」によると、次のようである。
 
 四月中 一〇日間 人足 四〇九人
          馬   三六疋
    借上依頼分(千旦林村へ依頼)
     一日間  人足  五九人
          馬   三〇疋
 
 これをみても春田耕作の時期と、助郷出勤期がかさなったことがわかる。
 五月に入ると、木草山の口明け、麦刈り、田植と農業最繁期になる。この時期に江戸へ下る参勤交代の通行、幕府役人の通行が多い。
 安政六年(一八五九)では、Ⅵ-121表にみるように日比野村では、五月中に六回、延三六人が実出勤し借上分(千旦林村依頼)では二回、延借上人足七九人、延借上馬分二八匹となっている。

Ⅵ-121 安政6年 日比野村助郷人馬詰表 (中津川宿分)

 同様のことを、慶応元年(一八六五)の福岡村についてみると、上り方(落合宿詰)が五月中に一一回、延人足四四・七人、延馬一〇匹、下り方一〇回、延人足四四人、延馬二匹となっている。
 苗木領高山村[恵那郡福岡町]の庄屋「萬下書帳」によって、安政元年(一八五四)の助郷出勤を月別にまとめてみると、Ⅵ-122表のようになる。

Ⅵ-122 嘉永7年(安政元年)苗木領高山村助郷出動月別数

 以上を見てわかるように、四・五月は助郷出勤の多い月であると共に農繁期でもある。
 慶応二年(一八六六)「落合宿助郷人馬概勘定帳」(古田家文書)後半年分から、川北八か村の出勤人馬を月日別にまとめたのが、Ⅵ-123表である。

Ⅵ-123 慶応二年 川北八か村助郷人馬概勘定帳より落合宿人馬勤 (七月~一一月)

 これによっても、Ⅵ-122表からもわかるように、三・四・五月と増加してきて七月に減少している。慶応二年(一八六六)は九月も多い。農業でいえば、秋の農繁期、つまり稲刈・麦まき・稲こきなどであろう(Ⅵ-123表)。秋の通行は、どちらかといえば上り方が多いから、中津川宿より落合宿への助郷が多いようである(Ⅵ-122表)。
 一〇月になり、秋の草山あきの頃(一〇月中旬)になると、助郷出勤も減少する。一一月は更にへり、一二月は一一月同様に少なく翌年二月から助郷出勤の回数がではじめる。
 以上のように、農作業の忙しさと助郷出勤の多い月は重なっていることについて、
 
         覚 (川北八か村申合せ)
  節十日前より同節のうち日数四十日の間は 銭四十八文づつ 一日に増し賃致し候よう相きめ申候
   ただし、秋の義は「ひがん」明(あ)き日より土用中、この分賃銭一日に四十八文ましに相きめ申候(天明七年御用伝馬録)。
 
 とあって、春の忙しい時期四〇日間と、秋の彼岸(普通の年は八月中旬)より秋土用(九月二〇日頃)までの間は助郷出勤にあたって、一日に付四八文増しにして、農繁期の助郷について手当をすることを申合わせている。