このことを含めて、中津川・落合両宿の助郷の主な事項とその大略を年代順にあげてみると、以下のようになる。
元和二年(一六一六)-宿に対して駄賃馬が多くいる時は、在々の馬をその町(宿)より雇い、荷の遅れのないように、風雨もいとわず出すこと。
寛永一七年(一六四〇)-中津川宿の助人馬高「都合壱萬百弐拾壱石」として、落合村、中津川村を含めている。落合宿には、助人馬はこの段階ではない[地方古義では落合宿は中津川宿と合宿で寛永一七年から助郷としている。]。
寛文五年(一六六五)-「定助ござなく候 大助の儀中津川 落合両町へ道のり四里半より内の村々高(八三〇一)石余」をあげている。
元禄六、七年(一六九三・四)-中山道助郷についての詮議と助郷制度の確立(巡見使の調査と助郷帳下付および請書)。
宝永七年(一七一〇)-苗木領川北八か村と同三か村(大井宿助郷)・助郷制度成立後一七年にして、負担増で困窮と領主に嘆願するも受入れられなかった。また木曽川を理由に道中奉行へも嘆願する。
正徳二年(一七一二)-助郷と宿の関係の基本となる道中触れ六か条の発布された年であり、川北八か村の勤め方について、
○木曽川出水にて、出勤不能の場合、人足一人一〇〇文本馬一匹四〇〇文ときめて、駒場・手金野両村がかかわって勤め、川北八か村は一定の賃銭を支払うことにする。
享保一〇年(一七二五)-中山道には定助なく、大助ばかりであるとの幕府の見解をだす。
延享二年(一七四五)-尾州上国の助郷出勤不足して、落合宿では、大井宿や木曽の人馬で補って継ぎたてる。
延享四年(一七四七)-大坂御番通行の助郷について、川北八か村は木曽川出水で馬が出なかったことをめぐって、落合宿役人と茄子川村・千旦林村など四か村役人と争い起る。
寛延元年(一七四八)-前年の争いもあって、木曽川出水で川北不勤について、
○百石に人足四人 馬一匹までは、茄子川・千旦林・手金野・駒場それに阿木の五か村で勤め、晴天の場合に川北八か村は勤返す。それ以上の場合は、正徳二年の「定」によって、雇人馬でつとめ川北は賃銭を払う。
宝暦四年(一七五四)-先触以外不当に人馬の助郷を課してはならない(同趣旨の触はこの年に限ったことではない)。
明和二年(一七六五)-日光一五〇年大法会の年で通行多く助郷負担大となる。苗木領では、助郷の賃銭負担を助郷ではない村を含めて、平均割りにする記録はこの年からある。
安永六、七年(一七七七・八)-大井宿助郷蛭川・姫栗・毛呂窪の代助郷として、阿木村枝郷広岡新田などへ「勤むべき旨の吟味」あるも、広岡新田は断わる。この一件から大井宿の川北の助郷は、河合村を入れて四か村となる。河合村が助郷となるのは天明元年(一七八一)である。
天明七年(一七八七)-宿立人馬(伝馬)と助郷の「定書の事」きまる。両宿へ助郷惣代を出すことになる。
享和二年(一八〇二)-助郷一三か村・両宿協議し
○五か村は中津川宿村
○八か村(川北)は落合宿付
とわけて、「暫く相勤め候方よろしき旨相談決定」する。実施についてはこの年だけであった。
文化元年(一八〇四)-助郷惣代勤方について、格別念入れて勤めること。
文政六年(一八二三)-東美濃九か宿(落合~鵜沼)助郷惣代、年々会合することにきめる。
天保一四年(一八四三)-幕府役人廻宿し宿人馬五〇人、五〇匹の定法を宿に申付ける。
弘化三年~嘉永元年(一八四六~四八)-天保一四年の定法申付けについて、宿側は困り助郷の村むらと、助郷出勤と伝馬負担について「取替申一札」というよう示談をする。
嘉永三年(一八五〇)-木曽谷一〇か宿助郷に広岡新田や苗木領手明村(助郷でない村)を当分助郷にするように願出る。
文久元年(一八六一)-和宮下向の年「容易ならざる人馬の備が必要」との風聞を聞いて、嘉永四年(一八五一)飯田文左衛門、荻野寛一の廻宿の折に加助郷を嘆願していたが、その時に調べた手明村を当分加助郷にするようにと、同年九月に道中奉行に嘆願している。嘆願者は中津川、落合両宿助郷惣代、駒場村庄屋源八、手金野村庄屋小左衛門、高山村庄屋忠左衛門、福岡村庄屋仲右衛門である。嘆願した手明村はⅥ-124表のようである。
Ⅵ-124 文久元年 最寄手明村之道法幷石高
(落合宿、中津川宿より)
文久三年(一八六三)-将軍家茂上洛、参勤交代ゆるみ、諸大名の家中、奥方などの通行多く、六月一五日から一一月二五日迄、当分助郷高一四八〇石、六二か村が中津川・落合両宿村分として仰付られる。
慶応元年(一八六五)-川北八か村助郷について嘆願する。
慶応四年(一八六八)-上地村ほか三か村飛州伝馬と中山道助郷の二重負担の解消を願い出る。
○両宿の助郷組み替え(一か年)以上が中津川・落合両宿と助郷の主な動きである。これらの事項については、すでに述べた事項もあるが、この中から二、三について更にとりあげてみる。