「伝馬大当りの節 助郷村方難渋願に依って御領分中平均付仰付けら候」(御用伝馬録)と この平均割を記録した文書には記されているから、平均割の理由ははっきりしている。それは、大通行で助郷負担が大きくなると助郷村は、苗木領当局に対して助郷寄付のない村にも助郷の負担(賃銭負担)をさせて欲しいと願い出ることによって、苗木領当局が判断して、寄付なしの村に対して 助郷村を助ける意味で助郷の費用のどれだけかを持高割にして負担させたものである。
明和二年(一七六五)の記録によれば
(1)一千七百五拾弐寛九拾文
右之通り中津川・落合・大井三宿の助郷拾三ヶ村より勤人馬賃銭〆高
内
(2)百弐拾壱貫文
御上様より 御領分中へ被下置候分 尤(もっとも) 此内三分二寄附拾三か村へ下され 三分壱寄付(よせつけ)にてこれなき村々へ下され候
(3)千百六拾八貫六拾文
右寄附拾三ヶ村より 出銭分三分二 高壱石ニ付四百五拾五文三分ツ
(4)五百八拾四貫三拾文
右寄付にてこれなき村々より出銭分
〆千七百五拾弐寛九拾文 (御用伝馬録県史史料編近世七)
この記録に付けた(1)~(4)の項を中心に 平均割の内容をあきらかにしていくことにする。
(1)一七五二貫九〇文と銭で表示された金額は、中津川・落合両宿と大井宿へ助郷出勤に要した費用と、木曽川渡舟ができず駒場村・千旦林村などにかわって出勤を願ったための費用及び雇人馬した費用などの合計、つまりこの年に要した助郷金額の総計を「銭」で表示したものである。
(2)助郷村一三か村以外にも助郷費用の負担を命ずる時は、この場合のように上様から補助金が出た。この年ではその額が一二一貫であり、これを三分の二は助郷村の一三か村へ、三分の一は助郷村でない村むらへ出された。この割合は幕末まで変化はない。
(3)と(4) 助郷負担に要した総額から、(2)であげた補助金分を差引いた金額を、助郷村の一三か村が三分の二、助郷村でない村むらが三分の一を負担した。
この助郷村の負担と 助郷村でない村の負担の割は、幕末になってもかわっていない。