飛州伝馬負担

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四か村が明治二年(一八六九)に、飛州伝馬について苗木藩伝馬懸り役所へ、願書と共に提出した文書、「飛州御通行ニ付御伝馬」があり、これは、元治元年(一八六四)から明治二年(一八六九)(但し明治元年は記載なし、明治二年は九月までの数)までの五か年間の、継立村一村の継立回数・継人馬を、まとめて書き出している。この五か年間を平均すると、一か年で人足一二六人強、本馬三六匹弱となっている。幕末の混乱期であり、飛州伝馬の夏道と冬道の原則が破れ、江戸幕府が安定していた時期と比べると、苗木領四か村の飛州伝馬負担は増大した。
 Ⅵ-128表に見られるように、慶応元年(一八六五)の資料が幕政時代の伝馬の状態(継ぎ数五回、人足四人、本馬二一匹、冬の御用金の輸送のみ)を示しており、夏道、冬道の原則が守られたと考えられ、脇街道の場合でも伝馬の増減は、政治の動きとは無関係ではなかったようである。

Ⅵ-128 飛州伝馬の月別回数と月別人足・本馬数

 飛驒における政治的な動き
 (1) 元治元年(一八六四)飛驒郡代の交替 福王三郎兵衛→高柳小三郎
 (2) 慶応二年(一八六六)飛驒郡代の交替 高柳小三郎 →新見内膳
 (3) 慶応四年(一八六八)一月新見郡代江戸へ逃る 二月竹沢鎮撫使着任
 (4) 明治二年(一八六九)梅村騒動 三月梅村高山県知事 苗木に逃れ失脚 宮原監察使着任