岩村領の大村である阿木村は、元禄七年(一六九四)に中津川・落合両宿助郷を下命されている。助郷高は一五八九石である。幕府から命ぜられる助郷は村の表高によるから、新田高はその領主が年貢はとるが領内の内高であって、幕府下命の諸役の石割には入らないのが表向きの立場である。
阿木村には、青野・両伝寺・福岡新田・広岡新田の四つの枝村があり、その中で新田高一五八石九六八余(享保七年の内検でさらに増石となる)の広岡新田がもっとも大きく、家数七五軒、人数三九五人、馬二五匹(安永七年調)をもっている。他の新田枝村三か村は広岡新田と同じ立場であるから、この広岡新田を例に枝村四か村の助郷をとりあげてみる。
青野村が廻触で命ぜられてくる各種国役について、青野は本村と異なり、諸役御免の新田村であると断りつづけている(国役参照)のも同じ性質の問題であるが、新田である枝村には助郷がないのが表向きの立場である。しかし同じ農民で本村の場合は助郷を負担し、小農が多かったといっても新田枝村は助郷負担がないというのは、本村側から見れば不平等の話である。