このように本村より「喰い米」を受取って又助にでていたが、文政一一年、一二年、阿木村代官橋本祐三郎一件から岩村領家老丹羽瀬の内政改革着手と進むと、各種負担増(参照橋本一件)もあって、天保三年(一八三二)の紀伊徳川家上国(上り)の大通行には「人足五拾壱人無賃にて相勤くれ様にと相頼所」となって 本村より広岡新田に申込まれた。これに対して広岡新田側は、本村が差支えていることは理解するが、「小前一統得心不仕彼是入組に談し」というわけで、話がつかなかった。そこで 城下岩村の町役人森六左衛門、庄三郎、飯沼村庄屋弥兵衛などが阿木本村と広岡新田の仲裁に入り、次のようにまとめた。
一 金弐拾両
但当(天保五)午年より(天保九)戌年迄五ヶ年之内 一ヶ年に金四両づつ
右之金子広岡新田より 差出五ヶ年積立 元金弐拾両阿木村役元にて支配いたし、右利金を以て年々平伝馬雇立の節差加可被致候
一 伝馬大当りの節は 是迠の振合にて 広岡新田より相勤候人足賃米は 阿木村より相渡可申候 且去ル(天保三)辰年 相勤候人足 賃米拾俵八升相渡申候(広岡・鷹見家文書)
の二条の取替一札によって、天保五年一二月に合意している。つまり、大通行は今まで通りに阿木本村から人足賃米を受取り広岡新田は勤める。問題の発端の天保三年(一八三二)の紀伊徳川家通行分については、人足賃米拾俵八升を支払う。しかし、二〇両を本村へ積立ててその利金を「年々平伝馬」の雇立てにあてることにした。この二〇両は丹羽瀬改革の一つの無尽にも関係があり、又助ばかりではないが、その利金を通常の助郷負担にあてることを認めたことで、広岡新田側は又助負担増を認めたことになる。