代助郷ことわり

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これらの理由と村の明細をつけて訴訟をした。Ⅵ-130表は添付した広岡の村明細を表にしたものである。これをみても高五石以上の百姓五軒(七三軒中五軒、最大高は八石三斗)であり小農が多いことはわかる。しかし代助郷返上の理由としては根拠が弱く、本村の又助も内輪の話である。これらも含めて吟味の様子にふれてみる。

Ⅵ-130 安永7年

 問(吟味役人)「阿木村助郷高千五百八十九石の村高の内に広岡新田高もこもり居候や」
 答(広岡新田)「此儀先年より広岡新田は外にて御座候得共 一体山方新田故 土地甚〻悪敷場所故先年御吟味の節も除キ相成候」
 問「落合中津川助郷人馬大人馬差出し節は 本郷の手当を以て勤来候儀ハ 本村之助合にて表立助郷相勤候外の村方同様難御聞済…」
 答「格別人馬差出候節は何れも山切難所に御座候得は 老人子供引御役可相勤者人別帳にて引足り不申候故 広岡新田よりも無余儀先年より罷出候に付 是迠落合中津川両宿助郷無滞相勤来候処 広岡新田の儀以来別段に大井宿代助郷村に被仰付候ては 阿木村にて中津川落合助郷必至と相勤不申両々差支ニ罷成申候」
 問「馬之儀ハ」
 答「牛馬之儀も糞踏馬にて少々宛に山稼渡世馬に所持仕引板并屋祢(根)板□薪等名古屋辺あるいは岩村御城下へ附送の駄賃稼にて渡世相続仕候」
 
 この他は、高い山のある「下」の村方で、「黒土少々白砂、悪土地」であることなどをあげ、若し大井宿代助郷になれば「夫食の手当百姓相続一向難義至極仕候」と申立て、「一村立助郷」を断っている。時に安永七年(一七七八)九月であった。この結果、蛭川村など三か村は河合村の助けを受け、その又助を中野方村など三か村が勤めることになる。
 幕末期の嘉永三年(一八五〇)に今度は木曽一〇か宿が願い出た増助郷に苗木領の手明村が多く入っているが、広岡新田も指定に入ってしまった。この時にも免除を願出ている。