飯沼村庄屋(仙治)が記録したものに「和宮様御下向ニ付 御廻状書留帳」・「和宮様御下向ニ付諸事書留帳」(吉村家文書)がある。これらの資料をもとに、和宮下向と助郷などの負担の状況をまとめてみる。
万延元年(一八六〇)一二月二五日、徳川一四代将軍家茂との結納の儀がおこなわれた和宮は、はじめ美濃路-東海道のコースで文久元年(一八六一)春三月下向の計画だったという。しかし、同年二月一一日落合宿鈴木由祐の日記には「和宮 木曽路道作はじまる」の記事があり、中山道筋で下向の準備がはじまっていたと考えられる。
同年三月守山宿の取締役大道栄蔵の使いが江戸まで中山道を内見した。「下向御治定内探書」によると、和宮の負担について
○先例と異なって、京警固となるから、迎え役人の登りは少ないだろう。
○宿泊の宿では、人足一三〇〇〇人、本馬五〇〇匹位は必要であろう。
○中山道は、東海道にくらべて小宿だから、人馬、宿泊施設から考えて、前後四日は必要であること。
などをあげ、和宮下向の大通行負担の大略をまとめている。
以下は前記の飯沼村資料によるもので①、飯沼村の助郷負担の状況、②、和宮下向と村の動きの二点が中心となる。
さて内探書到着以後の和宮下向関係の当地方の主な動きは次のようである(飯沼村書上帳吉村家文書)。
○往還橋目論方 御用の通行-八月八日中津川宿通行、大井宿泊
○助郷高人別調査-前記通行幕府役人に報告
○道中奉行の通行-九月一四日中津川宿泊
○和宮迎え幕府役人の通行-一〇月三日大井宿泊前後三日通行(一〇〇石付二二人の助郷割当)
○当分助郷申付触書-一〇月九日
○大湫宿普請用板の運搬-一〇月一五日・一六・一八日
○和宮下向ニ付「急度申触候」及び村の「差上申證文」-一〇月二〇日飯沼村着 二一日に連判差出帳の提出
○和宮下向宿泊 大湫宿=一〇月二六・二七・二八・二九日
中津川宿=一〇月二七・二八・二九・三〇日
○和宮の返輿通行-一一月九日
これらの動きを
①助郷村調査状況 ②中山道修理の負担 ③和宮下向にあたり岩村領関係役人の行動に対する人足・馬の負担 ④和宮通行及び関連通行の助郷の四つにまとめ、その負担の様子を助郷村からみてみよう(第六節主な交通参照)。