こうした動きの中で、和宮通行の本番がきた。和宮宿泊の期日は、大湫宿が一〇月二六・二七・二八日(和宮宿泊当日)、二九日の四日間、中津川宿が二七・二八・二九(和宮宿泊当日)、十一月一日の四日間にわたってであり、助郷村は大動員された。
飯沼村の下向人馬帳によれば 次のようである。
○一〇月二六日勤 | (名前略) | 〆 六人 | (枝村) 大野分 | 二人 | 都合 八人 |
一〇月二七日勤 | 〃 | 〆二七人 | 〃 | 一四人 | 〃 四一人 |
一〇月二八日勤 | 〃 | 〆一四人 | 〃 | 三人 | 〃 一七人(但一四人中六人は大井宿-大湫宿の人足) |
一〇月二九日勤 | 〃 | 〆三一人 | 〃 | 一五人 | 〃 四六人 |
飯沼村庄屋弥兵衛の覚(日記)には「文久元辛酉年一〇月廿八日 大湫着御泊り 廿九日大井御昼 惣人足弐万人余 美濃伊勢三河三国より加助人馬来候」とある。
一一月 九日勤(和宮返輿)〆七人 大野分 一人
下向はじめの情報では「前後四日 人足一三〇〇〇人、本馬五〇〇疋」であったが、下向が出発してからは人足二〇〇〇〇人必要と伝えられてきた。大湫宿ではこれよりさらに多く人足二六八四〇人を要したという。
その中で飯沼村の出勤分は一一二人(引率役人除く)である。飯沼村は枝郷大野村を含めて助郷高は四五九石、総人口三二五名、そのうち一六五人が男子であり、その中でも諸役負担(一五才~六〇才迄)は一二〇人であるが一人立ちできるのは七〇人である。この人数で飯沼村へきた諸負担を背負うのであるから大変なことであった。
書上帳のみで試算をしてみると、和宮下向の直接助郷人足数一一二人、中山道の道つくりの人足数一七三人、大湫へ入用板運送人足一四人、岩村領主松平家役人見分出帳駕籠等人足六三人、合計で三六二人となる。