文久三年(一八六三)には、将軍家茂の上洛、参勤交代がゆるんで諸大名の奥方や家中の通行の増加など、和宮下向に輪をかけて大きな負担が、宿と助郷にかかってきた。飯沼の弥兵衛の覚書には次のように記されている。
御上洛 東海道也
諸大名方御登り 猶又当年 諸家方国御邑へ御引取に相成 三ヶ年に百日の御交代と御改革に相成 奥方並に諸家中国邑へ引取に成 前代未聞の大通行 依之助郷難渋して加助郷願をして 弥兵衛治房(飯沼村庄屋)四月十日出立江戸において道中御奉行様へ奉願上 願の通り 近々手あきの村並三河にて被仰付候
当年 京都江戸惣国すべて国々大変さわがしく候
こうして文久三年六月一五日から一一月二五日まで 六二か村が中津川・落合両宿当分助郷に仰付けられた。しかしこの六二か村は「…当分助郷村々少者相勤候 引合出金仕候得共 其余彼是申立勤方御請不仕 何様にも出金不仕…」(当分助郷六二ヶ村の内不金調願書写・立教大学)とあるように、助郷出勤・引合出金をしない村が多く 宿と助郷を衰退させていった。文久三年の中津川・落合両宿当分助郷村とその出金状況、村高などは次のようである。
中山道中津川・落合両宿
一 高 八三〇一石 大助郷一三ヶ村
一 高 一四八〇四石 当分助郷六二ヶ村
((文久三年)亥六月 一五日より一一月二五日迠 被仰付高)
計 二三一〇五石 (前記二口の計)
中津川宿惣助郷勤高((文久三年)亥六月一五日~一一月二五日迄)
人足 一七四二五・五人
本馬 一八一三匹
落合宿惣助郷勤高(中津川宿と同)
人足 六五〇七・五人
本馬 一三八二・五匹
不残人足に直し
〆人足 三〇三二四人
但 人足壱人に付銀五匁
高百石に付人足一三一・二四四人
これらの人足・本馬の割当を当分助郷村別に、出金状況も入れて、支配者別に表にしたのがⅥ-131表その①・②・③・④である。
Ⅵ-131(その①) 文久3年 当分助郷について
Ⅵ-131(その②) 文久3年 当分助郷について
Ⅵ-131(その③) 文久3年 当分助郷について
Ⅵ-131(その④) 文久3年 当分助郷について
[注1] 弐拾ヶ村(益田郡の村々) 共 人馬勤方之儀再応及掛合候得共 右は御支配御役所へ難渋の次第申立 右役所より其筋へ御申上に相成 当分助郷御免除被仰付候趣申立 人馬一切差出不申 甚以難渋至極仕候 左様之儀御座候哉 奉伺候
[注2] 右三ヶ村之儀は諸金懸合中に御座候
[注3] 右四ヶ村(加茂郡)の儀は御領主へ伺の上に無之ては出金難相成申立 再応掛合候得共 出金不仕候
[注4] 右拾壱ヶ村(郡上郡)の儀は半高御免除に相成候得共 猶皆御免除の儀其筋へ歎願中に付 右答不相分内は、人馬一切難差出旨申立候
[注5] 右弐ヶ村(三河国設楽郡)の儀は七分御除 三分勤被仰付候由申立 右三分勤之内へ六両請取申候
[注6] 右名倉郷の儀は四分御免除、あるいは八分御免除之旨申立候弥 左様御座候哉奉伺候
[注7] 右弐ヶ村(郡上郡)の儀は半高御免除相成候得共 猶皆御免除之儀 其筋へ歎願申に付 答□不相分内は人馬一切難差出申立候
[注8] 右は隣宿大井宿へ当分助郷相勤居候趣にて 人馬一切差出不申 無據大助郷拾三か村ニて弁の出金仕候
[注9] 右は追々出金仕候筈引合に御座候
Ⅵ-131表 その①~④、注1~9ともに、「乍恐以書付奉願上候」と嘆願した「六二ヶ村之内不金取調願書写」=立教大学蔵
当分助郷は仰付けられたが、その通りにはいかなかったということである。
Ⅵ-131表 その④に表示すように明知領の小杉村外二か村、岩村領串原村外四か村、苗木領柏本村外一〇か村の計一九か村は、出金引合に応じて話が進んだが、Ⅵ-131表その①~③に示す四三か村は領主に免除を願い出て領主からその筋へ願い免除になった。或はその筋へ嘆願中といって出金に応じようとしなかった。
応じない四三か村は、益田郡下呂郷以下二か村、尾張領裏木曽三か村(川上・付知・加子母)、尾張領田代山寺村など四か村、郡上郡の一か村、三河の二か村、三河設楽一か村、郡上郡二か村であり、出金賃銭合計で金一四〇八両余、そのうち引合出金したのが金九四両余、差引いて金一三一四両余が「出金不仕額」として残った。このことについて人馬帳(古田家文書)にまとめてある願書の中に「助郷村むらにて残らず立替え出勤したから宿方は当分助郷が不出勤でも差し支えないので宿役人に申し立ててもやってくれない。それで助郷村むらにて当分助郷四三か村に対して立替金を差出してくれるようかけ合っても出さないので、早々に出金するよう命令して欲しい」との趣旨のことがある。ここに助郷制度が支配側の圧力でもどうにもならなくなって、ゆきづまってきたことがみられる。