助郷休役願

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文久三年の大通行以後も助郷村むらにとって、過重負担の状況が続いた(第四節Ⅵ-118表参照)。慶応元年(一八六五)正月九日、中津川宿に道中奉行神田土佐守、目付塚田但馬守らが止宿した。これら幕府役人に対して、中津川宿問屋森孫右衛門・年寄中川萬兵衛、落合宿問屋塚田弥左衛門・年寄井口善助、それに両宿助郷総代駒場村組頭戸七らが、「益田郡下呂郷二〇か村が 江戸表へ嘆願して 文久三年六月~一二月間の当分助郷負担を免除されたというが本当ですか」(註-参照)と伺っている。このようにして当分助郷負担未納で苦しんでいた。
 同年五月には「まれなる洪水 川北八か村川筋一統に田畑流失多し 更に難渋」(福岡村御用伝馬録・水垣家蔵文書)「五月一七日大雨洪水 川上川筋 阿木川筋出水にて田地流れる」(広岡鷹見家日記)、「田植後の大雨にて大洪水 道路欠潰し往来留め 雨降り日多く お日乞いを行う」(飯沼村弥兵衛覚 太田町・吉村家文書)とあるように 同年は大水害におそわれている。
 これら三点については、助郷が宿役人に「書付けをもって願上候事」(御用伝馬録・慶応二年日記・水垣家蔵文書)でもわかる。
 
 一 中山道中津川 落合両宿大助郷の内 下野村外八ヶ村の義は 元禄七戌年御伝馬役仰せつけ 是まで差しつかえ御座なく勤続け来り候ところ 近来諸家様御用御通行おびただしきところ 殊に文久元酉年 和宮様御下向ならびに御変革仰せ出され 引き続き度々御上洛なされ遊し 多分の人馬御継立て 必死難渋つかまり候に付 去る(文久三年)亥年 当分助郷願上たてまつり候ところ 早速 御許容下し置きなされ 御印状頂戴安心つかまつり それぞれ引合におよび候ところ 村々皆免除或は寄合免除申し立て人馬賃銭定あい立ち申さず 当惑至極つかまつり候ところ 去る五月まれなる洪水にて川筋一統田畑流失多分これあり 別して難渋の折柄にて 御伝馬役是までの通りあい勤めがたく候に付 止むことを立ず (慶応元年)丑の七月出府つまり道中御奉行所へ難渋つかまつり当分助郷不勤の分 御取調べ願上たてまつり置候
 
 尚又 代助郷ならびに当分助郷仰せ付けられ 私ども村々の義は困窮なるべく 立ち直り候まで 一月休役仰せつけられ下し置かれ候様 段々願上たてまつり候ところ 御取調中帰村仰せつけられ 去る冬帰村つかまり候
 
と休役のことは不成立になってしまった。これを知って助郷の村々の小前百姓の動きとして「村々疲弊におよび人馬あい勤め候はとても不行届の旨小前一同申し出候につき」と助郷出勤反対の態度を村役人に示してきた。そこで村役人としては中津川・落合両宿に対して「両宿代表が出府して 当分助郷不勤の分の取調べと 助郷休役について嘆願して下さい」と懇願している。なおこの願上文には 助郷九か村(阿木・下野・上野・瀬戸・福岡・日比野・上地・坂下・高山の各村)の小前役人総代も署名している。
 慶応二年(一八六六)正月一八日、助郷総代である福岡村の馬五(孫)六郎は、市岡長右衛門(中津川宿本陣・問屋)、森孫右衛門(中津川宿脇本陣・問屋)、塚田弥左衛門(落合宿問屋)と交渉し、翌一九日は坂下村庄屋佐六と、同二一日は日比野村勘左衛門とも協議をしている。
 一方申込みを受けた宿役人側は、同二三日に市岡長右衛門、間半兵衛、落合宿の井口善助、酒井利兵衛と相談し、助郷の意を受けて、宿側として道中奉行へ提出する願書案をつくり、これを苗木領役所へ連絡した。同所は直ちに福岡村馬五六郎、日比野村勘左衛門を呼び出して知らせ、坂下村佐六へも飛脚が飛んだ。
 しかし、この頃になると、助郷小前一同は「どのように仰せつけ候ても 小前一同はあい勤めがたき旨…」(伝馬録)と不満を高めていた。助郷総代と両宿役人の交渉は、同月二八日までつづき、「二月一か月御伝馬相勤め候よう 役人の御心得懸 挨拶に及に 双方引取り申し候」(伝馬録)とあるように、とにかく慶応二年二月だけは、助郷出勤としてわかれた。
  けれども小前百姓一同の突きあげの中では、助郷九か村役人は、二月は助郷出勤といっても、次のような出勤の旨を両宿問屋に送ったのだった。
 「…(略)…村方は御案内の通り難渋に付 勤方一切不行届の旨申し出し 小前一同承知つかまつらず迷惑仕候 しかしながら 役人どもの筋合をなし 来月一か月の処は雇立人馬を以て相勤め申すべく候…(中略)…もっとも人馬勤方の儀は一切御断り申し上げ候…(以下略)…」(伝馬録)
 雇立人馬は勤めるが、その他は二月中一切助郷人馬勤めはしませんという内容である。助郷総代らの力で小前百姓らの不満をやわらげて助郷人馬勤めさせることは出来なかった。
 慶応二年二月二日両宿役人より、道中奉行への嘆願は両宿としてはできないという返事が助郷総代にとどいた。助郷九か村は相談、協議して、両宿役人も早々出府して道中奉行に嘆願してほしいと、再度申し入れたが、宿側は助郷の言い分を受け入れようとはしなかった。
 同年二月二二日助郷方は宿方へ更に調子の強い申し入れをした。それは次の二点であった。
 (1) 伝馬出勤(助郷出勤)は当二月の外は、後出し申さずということ。
 (2) 道中奉行所へ、そのことを届けたから宿方からも願出てほしいこと。
 助郷村方、宿方とも、言い分を通して譲らないのは、それぞれバックがあることもあった。それは前述したが、助郷村に理解と同情を示すのは苗木領、岩村領役所であり、宿方では両宿の救助、助成に責任のある尾州領太田代官所(陣屋)があった。岩村・苗木役所や太田陣屋も助郷と宿の対立についてはその都度報告を受けており、同年二月二四日には、二二日付で太田陣屋より「伝馬相勤候様」助郷村へ話して欲しいとの手紙が苗木領役所へ来て、そのことが助郷村の勘左衛門(日比野村)、馬五六郎(福岡村)、佐六(坂下村)らに伝えられた。
 また、江戸の苗木領江戸屋敷の曽賀(我)多賀八から馬五六郎へ手紙がきて、①今すぐ助郷惣代の出府には及ばないこと。②宿・助一体(宿役人、助郷一体)の連署で道中奉行へ願わないとむつかしいこと。③江戸出府の折には取り持ちをすることなどを知らせてきている。
 前述のように宿の立場をうけた太田宿陣屋の「伝馬相勤候様」の手紙は岩村役所へも出された。この手紙についての返事は三月に入ってから出されているが「諭方難行届候」(苗木領役所)、「申諭難出来候」(岩村領役所)とされており、それぞれ領主側をまき込んでいることがわかる。
 こうした対立によって実際の助郷出勤はどうなっているか、福岡村の場合について助郷人馬詰払帳(落合宿分古田家文書)によると、同村では同年正月六日に人足七人、同一八日に人足一一人、同二八日に人足五一人、二月一〇日に人足一一人合計八〇人分は雇立人馬で支払いとなっており、他に二月中に人足二五人馬三匹が出勤しているが、それは正勤人馬か雇立人馬かよく分らない。その後は、この詰払帳によると、七月一三日まで落合宿へ助郷出勤はしていない。
 飯沼村弥兵衛の日記にあるように、慶応二年四月道中奉行へ再嘆願が行われ、同年五月より武儀郡・郡上郡にて、三七か村が両宿の当分増助郷四分通り勤めが命じられた。これをうけて同年七月から一二月までの落合宿における助郷人馬は人足五〇九七人、馬五二七匹で、これを当分増助郷も含めて高一一〇四六石(助郷一三か村では八三〇一石余)で割り、一〇〇石に付人足四六・一五人、馬四七匹の出勤となっている。助郷村側ではⅥ-132表のようである。

Ⅵ-132 慶応2年 助郷人馬概勘定帳 [但五月より八月迄の借り立 次触は此触を除き廻の事]
 寅十二月 落合宿 (古田家文書より)