助郷をめぐっての事項を川北八か村と岩村領二か村について中心的にとりあげてきた。そこでここでは、尾張領四か村(手金野村、駒場村、千旦林村、茄子川村)と両宿の問題を、年代をさかのぼってとりあげてみる。
延享二年(一七四五)四月尾張領主徳川宗勝が中山道を上り帰国した。この通行に際して、八五〇両の費用で大井大橋を架け替えたり、茄子川村橋場の土橋を材料費一貫丈で修復している。また、領主の上国が支障ないように尾張徳川家は郡方の役人を次のように配し万全を期した。
・落合宿 島居覚右衛門 ・中津川宿 清水太郎左衛門
・駒場より大井宿までの先払い
飯嶋重左衛門(代官) 橋本分左衛門(代官手代)
郡方役人の配備や道橋の修理などの仰々しさもさることながら、四月一四日の落合宿から宿泊地大井宿までを継立てる助郷は大当りとなった。
この日の人馬触れは村高一〇〇石に付き、本馬二匹、人足一〇人割であった。この触れで茄子川村助郷高一三〇〇石の人馬割りをすると、本馬二六匹、人足一三〇人となるが、人馬触れが出されたあと木曽川が出水し、苗木領八か村の助郷人馬寄付(よりつ)きがあやふくなった。そのため八か村以外の助郷村の人足割が一〇〇石に付き一〇人から二〇人に変更されたのである。
尾張徳川家郡奉行は、中津川・落合両宿で「随分と精を出し伝馬を勤めるように」と、奮起を促しているが、茄子川村では二六〇人の人足を出さねばならず「村々人別ニ出候而も二十人割と申ハ無御座」と、他の助郷村庄屋と共に中津川宿へこの人足割をことわりに行っている。木曽川の水が引き渡河も可能となり、苗木領八か村の助郷人足も継立て参加するが、まだ人数が足りず大井宿寄付きの助郷人足を二六〇人借上げ、「都合千七百人程」集めたといわれるが、これだけの人足も落合宿での継立が悪く、本陣(領主を中心とする行列)につかい切り、行列の殿(しんがり)を行く成瀬隼人正[犬山城主、尾張徳川家家老職]の継立人足がまったくいなくなってしまった。木曽方中津川代官向井五左衛門は木曽の人足を中津川へ戻し、ようやく継立が終わった。
翌一五日尾張領助郷四か村(駒場村・手金野村・千旦林村・茄子川村)は一〇〇石に付七人割(茄子川村支配人二人・人足七〇人)で大井宿借上人足の勤め返しに大湫宿まで行かなければならず、領主の通行という異例さもあるが、このような混乱した継立は助郷村の両宿不信となり、二年後の大坂御番百人衆継立をめぐって宿と助郷村が争った原因の一つでもあった。