一一月一三日、手金野村を除く三か村の庄屋・組頭・人馬支配が尾張徳川家郡奉行所へ召喚された。これは両宿問屋が郡奉行所へ「助郷方之儀ニ付」と願書を提出したからである。この日は調べも何の申渡しもなく、翌一四日先ず願書が読み聞かされた。
(1) 御定番の通行のとき川北八か村の不勤馬を落合宿が四か村から雇い(不勤馬を四か村から雇うようになった経過は分らない。)一匹に付き四〇〇文(総額九貫六〇〇文)を四か村にたてかえて支払ったが、正徳の申し合わせ通り八か村から雇銭が入ってくるわけだが、まだ未払いなので両宿の賄(まかない)(宿財政)が苦しい。手金野村は返却してくれたから、三か村も戻してほしい。
(2) 宿問屋の触れ通り四か村は助郷役を勤めていないから人馬は触れ通り出してほしい。
との二点であるが訴訟は賃銭の問題が主であったのだろう。なぜなら助郷勤人馬の件であれば三か村と行動を共にした手金野村は当然のこと郡奉行所へ出頭しなければならない。郡奉行所は三か村を次の様に叱責し申渡しを行なった。
① 手金野村は落合宿へ雇馬の賃銭を返したが、三か村は返さないから不埓である。 落合宿が八か村より雇馬の賃銭を受取るまで支払いはしないから、これまでに受取った賃銭は戻すこと。
② 助郷人馬過不足の件は願書の通りである。これからは触れ通り人馬を出し助郷役を勤めること。とくに茄子川村は勤人馬が不足している。
これにつき三か村は「理非之御吟味無之仰渡候事」と、助郷村の申開きも聞かず一方的に叱責されたことを不満に思っている。
尾張より帰村後、茄子川村は落合宿へ賃銭を返しに行くが、使いに持たせた添状の「請取り取るべく」の文面が気に入らないと、宿問屋弥左衛門より突き返され再度賃銭を返しに行っている。
不足馬賃銭の返済をもってこの一件も片付いたかに見えたが、手金野村庄屋利兵衛が茄子川村久々利方庄屋傳右衛門に「落合宿へは賃銭を返していない」と話した。三か村は両宿問屋が「手金野村が賃銭を返した」と願書にうそを書いたことは三か村を罪におとし入れ、村々を痛めつけることであり、「はなはだ不埓勘忍しがたき仕合」と怒り、この問題は再び紛糾したのである。
寛延元年(一七四八)一月一一日三か村庄屋は手金野村賃銭返済の件に付き、各村人馬支配人五人を落合宿問屋へ抗議のため差し向けた。落合宿年寄が全員立合い「手金野村より不足馬の賃銭を受取るはずであったが、少々内証のもめごとがあって まだ受取っていない。名古屋(郡奉行)への願書に受取ったと書いたと言うが、受取り申す筈と書いたのだ」と苦しい返答をしている。「当分の理に詰り 紛らかしと相聞候」と三か村の人馬支配人は納得できる返答とは受取っていない。
この問題を解決するには、手金野村が不足馬の賃銭を戻すことと見たのか中津川代官向井五右衛門は、一月一四日、手金野村庄屋・組頭を代官所へ呼出し「賃銭をまだ返さぬと言うが 是は当然出すべき筋のものである。」と叱った。手金野村は翌一五日に落合宿へ賃銭を戻した。
一月一六日、駒場村庄屋佐五郎が手金野村へ行き、庄屋利兵衛とその件の話をすると、
「私どもの村としては、返すつもりはなかったが御代官の御意に従って仕方なく出したまでのことで、全く面目ない。この頃、村方の勘定が悪くなった。」ともらしたと言う。
また両宿は三か村と八か村の不勤人馬のことで相談している席上「納得の上で賃銭を取り逃した。」とも受取れる失言をし、三か村を「両宿問屋之不埓 手金野庄屋の腰ぬけ絶言絶句の事共に候」と怒らしている。
この紛争について狂歌九首(中津川伝馬出入ニいか成何処の者が仕たりけん狂歌九首)とちょぼくれがつくられている。その中から狂歌三首を掲げてみる。
役人にいかな伝馬か見入てや 是非に中津の宿業とかや
きりのない欲から馬の持過し 錢見たばって村へけんくる
分別に思う四ヶ村の庄屋なし 宿の難儀をとうに助郷
ちょぼくれが歌われたり、狂歌が詠まれたり、年を越しても解決しなかったこの一件も、宿が助郷村に必要以上の人馬を割り当てること、川北八か村の木曽川出水による不勤人馬の問題が問われないまま、不足馬の賃銭を返せ、返さぬの問題になり、このことだけに凝固されたような格好になってしまった。前年の冬から両宿と助郷一三か村との間で八か村が不勤の場合の問題を話し合っていたが、三か村と両宿が係争中であったためこの話し合いは不調に終った。
手金野村が不足馬の賃銭を返した三日後の一月一八日両宿は三か村に川北八か村が出水不勤のとき人馬を四か村で引き受けてくれるよう交渉するが三か村は郡奉行所で仰渡された通り八か村から不足人馬賃銭を受取り三か村に渡してくれてから話し合いをしようと確答をさけている。
この後、両宿と助郷一三か村の間に川北八か村出水による人馬不勤の場合の取決め「寛延の申合せ」がなされた。 (茄子川篠原家文書)