中山道の諸通行

1414 ~ 1415 / 1729ページ
ここでは姫宮・大名・役人・日光例幣使・茶壺・幕府天文方・文人・墨客の通行についてまとめた。
(1) 姫宮通行では、皇族や公家の姫君たちが、将軍や水戸家などに嫁がれるとき、その多くが中山道の通行であった。
(2) 大名通行では、毎年四月が参勤における外様大名の交代期であり、特に四・五月の通行が多くみられる。ここでは苗木遠山家、郡上青山家、大垣戸田家、尾張徳川家、岩村松平家、彦根井伊家の中津川宿本陣においての休泊のようすを「御休泊留記」[市岡家文書以下留記と略]の記述を参考にまとめた。
(3) 役人通行では、大名達が幕府役人として、京都、大坂、長崎などの任地に赴く途中、またはその帰路に中津川宿本陣での休泊が多くみられる。ここでは役人通行の中でも大坂定番、大坂加番、二条御番、長崎奉行等の諸役人の通行をまとめた。
(4) 日光例幣使通行については、朝廷より日光東照宮の四月大祭に派遣される奉幣使が、例年四月五日頃に中津川本陣で休泊をして日光へ向った。中津川本陣での休泊のようす等を他の通行などと比較してみた。
(5) 茶壺通行については、茶壺道中ともいい、将軍が年間飲用する茶を、山城国宇治より求める行事である。この通行は、幕府の権威を内外に示す意図もあり、多くの人馬を徴用し、盛大な行事となった。しかし農民にとっては負担の重い通行であった。
(6) 幕府天文方役人の通行、天文方とは全国を測量する測量方役人のことであり、特に中山道及び脇往還の測量のために中津川宿をおとずれた。その通行のようすを可知家文書、手賀野吉田家文書などからまとめたものである。
(7) 文人・墨客の通行では、中津川宿を中心として周辺を通行往来した俳人、歌人、画人、儒者などのうち、確かな文献の残るものについて、年代順に記述したものである。
いずれの通行の場合も、年代順に主な通行をあげ、その中の二・三の通行のようすにふれることにする。