主な姫宮通行
皇族や公家の姫君たちが、将軍家などに嫁がれるようになったのは、享保一六年(一七三一)伏見宮邦永親王王女比宮が、徳川九代将軍家重に嫁がれたのが初めである。次いで一〇代将軍家治へは、閑院宮直仁親王王女五十宮が、寛延二年(一七四九)に嫁がれている。一一代を除いては以後歴代のもとへ姫宮が嫁がれるようになった。一二代将軍家慶へは、文化元年(一八〇四)有栖川熾仁親王王女楽宮が嫁がれている。この通行について「塚田手鑑」は「楽宮中山道を下向す 助郷大あたり前代未聞のことに候」と大通行で助郷の負担の重かったことを記している。楽宮の通行は、細久手、中津川、野尻、福島の各宿が休泊所となり下向をつづけられた。
また楽宮と同じ有栖川家王女登美宮が天保二年(一八三一)水戸家徳川齋昭へ嫁がれ、三月二四日中津川宿本陣で小休されている。大黒屋日記には「水戸嫁入登美宮中山道下向」と記し、留記には「有栖川宮御妹登美宮様 水戸様に御輿入御下向大湫宿御泊 大井宿御昼 落合宿御泊 当宿(中津川宿)御小休」と書いている。
登美宮一行の中津川での小休についての、本陣での対応は、「留記」によると次のように書いてある。天保二年(一八三一)二月二三日、水戸家宿割 鈴木長右衛門が、宿本陣見分に立寄り本陣で小休になる。本陣では絵図を差上げた。二月二六日には水戸家永井六郎左衛門らが本陣を訪れ、お茶用水・井戸水を中心に、さらに当日用の火鉢も見分している。さらに二七日には、水戸家再見分役として鈴木藤兵衛、番頭儀左衛門ら一〇人が本陣に休泊し、本陣を始め宿内を細部にわたり見分している。そして三月朔日には尾張表から本陣見分役として、作事奉行 寺尾次郎左衛門を始め、其外の役人衆一〇人が本陣に休泊して、見分の上修復を申しつけている。一方勘定吟味役 加藤勘兵衛、尾張太田代官所 平松九郎八ら六人は、田丸屋に宿泊し下向の準備をすすめた。
通行の三月二四日のようすについては、「留記」には次のように書いてある。「有栖川宮御妹登美宮様 水戸様へお輿れで下向された 大湫宿で休泊 大井宿昼、落合宿休泊 中津川宿本宿では小休となる 本陣側の出迎え お見送りは共に宿端までとする 玄関には縮緬の幕 玄関前高塀見切幕を太田代官所より借りて張った 上段前も同じ……」としている。
この年九月には、一三代将軍家定へ鷹司政熙の息女有姫が若年九才で嫁がれ、中山道は一年に二度の大継立となった。この有姫の下向について、鷹見家文書[阿木村広岡新田]は、九月二日鷹司家息女有姫が落合宿泊りで、中山道を下向された。阿木村広岡新田からの助郷人足は五一人(別に支配人二人)、野尻宿までの通し人足、支配人も同じ落合村囲人足であった。米九升を阿木村より受取ると述べている。また一方坪井家文書[付知町]は「有姫通行に際し 助郷村でない付知 加子母村も落合宿につとめた」と記している。
有姫は降嫁後一八年にして死去されたため、将軍家の継妻として、嘉永二年(一八四九)摂政関白左大臣一条忠良の息女壽明君が嫁がれた。壽明君は九月一五日中津川宿泊りにて中山道下向している。この下向について、「…壽明君御迎えの役人 渡辺甲斐守が九月二日中津川宿泊りにて中山道を登るそのため阿木村広岡新田では、上りの人足・支配人共に四六人 下り人足・支配人共に二二人差出す」(鷹見家文書)とある。この姫君通行のため、本陣が改造中にたまたま岩村領主松平能登守の登りのため休泊となったので、岩村領主は休泊先を変更し上問屋での休泊となることも起っている。
さらに安政五年(一八五八)広幡大納言の妹宮である鋭姫が水戸慶徳に嫁がれ、四月一六日中津川宿本陣で小休され下向されている。この鋭姫の下向に際し、尾張表からは宿本陣見分役として、四月九日に作事奉行 五味相右衛門・天野段右衛門ら上下九人を中津川宿本陣に宿泊させ、吟味役・人馬指・宿内取締として下向に協力させている。
通行当日のようすについては 「ぜんめしの入用はなく 玄関は紫幕・門・板ノ間は麻幕がはられ 献上物は禁ぜられたので差上げなかった 当日は太田代官所より人馬の指図のため近藤勝之右衛門が会所へ詰められた 先払いが一人小石塚から落合境まで勤めた 付添の人たちには 上問屋・志水屋・田丸屋その外宿を取っておいたところ 暫しく小休された」と「留記」は記している。
ついで文久元年(一八六一)には 孝明天皇の第八王女和宮が、一四代将軍家茂に嫁がれるため、一〇月二〇日京都の桂離宮を出発され、同月二九日中津川宿本陣で休泊されている。阿木村鷹見家文書には「和宮降嫁 一〇月二九日中津川宿泊りにて中山道を下向前後五日間の大通行 助郷人足は中津川宿より三留野宿まで通し継立てる 尾張より人足をおびただしく出勤める 昔より覚ざる大通り也という」とある。
京都を出発された一行の行列は、一日目を大津宿で休泊。大行列のため継立も大混乱の一日であり、二一日も大津宿に逗留。二二日は草津宿で昼食休息、守山宿泊。二三日は守山宿から武佐宿へ三里半、武佐宿から愛知川宿へ一里半、二宿五里の行程であり、武佐宿で昼食休息、愛知川宿休。二四日は高宮宿休息、柏原宿休泊。二五日は関ヶ原宿昼食休息、赤坂宿休泊。二六日は美江寺宿昼食休息、河渡宿休息加納宿休泊。二八日は伏見宿休息、御嵩宿昼食休息、大湫宿休泊。そして中津川宿本陣での休泊は一〇月二九日である。こうして二五日間の旅程であり、宮が無事に江戸九段牛ヶ渕の清水御殿に入られたのが 一一月一五日である。
和宮通行にかかわる中津川宿での動きの概要についてみる。
四月七日には御徒目付松本証助・吉本勇五郎ら、本陣の見分をする。その折には本陣絵図・脇本陣絵図・中津川宿内落合入口までの往還絵図をあわせて三枚を二組差出した。一通は持参され、他の一通は目付役に差出すよう指示をうけた。
八月二日には、本陣見分として勘定奉行成瀬嘉兵衛が小休。その他作事奉行五味所左衛門・普請奉行正木宇平ら、贄川宿より登り方の見分が行われる。
八月八日には、勘定役の関根又右衛門が、道や橋見分のため上り、お付上下七人一汁一菜、木銭米代常の通りであった。吟味方改役小沢金五郎ら五人は上問屋、吟味方下役普請役四人は田丸屋に泊る。この折案内役として四人を差出した。
九月一四日和宮の下向について、道中筋ご用のため道中奉行酒井隠岐守よりのため休泊。本陣は修復中であったので、上松宿までお断りに出たところ承知され、一旦脇本陣へ入られた。しかし脇本陣では手狭であるということで俄に本陣へ移られた。また勘定組頭始四人、普請役三人が加助郷願や道中方への願が多くあるので、一同本陣へ越され調査された。
一〇月二九日当日前後の模様については、供の公卿衆前々日に七方、前日五方、当日は一方、同行者は母の観行院御局を始めとして、付女房、女中・供の公家中山大納言忠能、橋本宰相中将実麗ら、こうした人々と幕府よりのお迎は、若年寄をはじめ以下六〇〇〇余人、尾張よりも警護の者達三〇〇〇人。賄所は丈助方と本陣向役所備前屋であった。人馬の継立も大変で、会所へは道中奉行酒井但馬守始め勘定・普請役が、尾張よりも竹腰氏が出張し継立が行われた。
和宮の通行に関する史料は、時も幕末であり通行の規模も桁はずれたものであったので、各宿場・各村方文書として多くの史料が残されている。ここでは概要のみに留めるが前代未聞という文字が諸記録に散見するように、この通行は後々までいろいろの問題を残した。