慶長二〇年(一六一五)幕府は武家諸法度を制定し、将軍家光の時に参勤交代を制度として発足させている。さらに寛永一九年(一六四二)の武家諸法度では次のようにきめられていた。
一 外様大名は東西両衆に分ち、毎年四月をもって両衆を交代し在府、在国させた。
一 諸大名の関八州に在るものは在府、在国各半年とし八月をもって交代するもの七人、二月をもって交代するもの七人とする。
一 要害の城邑を占むる諸侯は互いに交代して参勤せしむ(日本交通史概論)。
この規定により外様大名は毎年四月を東西両地の交代期とし、関東の諸大名は半年交代、要害地の諸侯は「要地居替交代」として、二城主が互いに封地を守って参勤をしたものである。その中で中山道通行を指定された諸大名について、宝永二年(一七〇五)三月制定の武家諸法度では次の八か国三〇家となっている。加賀・越後・上野・越中・信濃・武蔵忍・美濃苗木・下野足利・この外に彦根・大垣・丸岡・郡上など八家は道中奉行の許可を得て通行の道筋を中山道に振替えることが許されていた。以下に苗木遠山家、郡上青山家、大垣戸田家、尾張徳川家、彦根井伊家の五大名について留記からまとめた。