苗木遠山氏は中山道通行を指定された大名である。苗木城を出る遠山氏の行列は城の南側、駈り門より急な四十八曲を下り大手門を経て木曽川を渡り設楽の森から中津川宿に出る。落合宿-馬籠宿-妻籠宿(休)-三留野宿-野尻宿(泊)。二日目は須原宿-上松宿(休)-福島宿-宮ノ越宿-藪原宿(泊)。三日目は奈良井宿-贄川宿-本山宿(休)-洗馬宿-塩尻宿-下諏訪宿(泊)。四日目は和田宿(休)-長久保宿-芦田宿-望月宿(泊)。五日目は八幡宿-塩名田宿-岩村田宿-小田井宿-追分宿(休)-沓掛宿-軽井沢宿-坂本宿(泊)。六日目は松井田宿-安中宿-板鼻宿(休)-高崎宿-倉ヶ(賀)野宿-新町宿-本庄宿(泊)。七日目は深谷宿-熊谷宿(休)-鴻巣宿-桶川宿(泊)。八日目は上尾宿-大宮宿-浦和宿-蕨宿(休)-江戸上屋敷。
このように一日平均一〇里余の道中で江戸まで八日間での下向であった(植松家文書)。
文政九年(一八二六)四月二九日は連日の大雨で木曽川が出水し船越しができず中津川宿本陣で逗留となる。本陣より献上物として上物の玉子二一個差上げたと書き、翌々日木曽川の水が減水したので出立となる。本陣より主人始め一同茶屋坂まで見送る。また文政一三年(一八三〇)「四月二七日苗木様(第一一代領主友壽)御帰城の時 上地川洪水で渡船出来難 落合宿に晦日まで御滞留」。この時中津川本陣より羽間杢右衛門ら御機嫌伺いとして菓子一箱を持参して落合宿まで出向いている(留記)。