郡上青山家は中山道通行を指定された大名ではないが、道中奉行の許可を得て中山道に振替えることのできた大名である。中津川宿本陣には文政八年(一八二五)、天保六年(一八三五)の本陣休泊の史料が残っている。文政八年の場合は郡上青山家大膳亮が江戸より帰城のおり中津川宿本陣で休泊した。本陣休泊は上下三〇人で休泊料として上分二〇〇文ずつ支払い、下分は一五〇文ずつ支払った。その他のお供役人は下宿一四軒、日雇宿一〇軒に分れて休泊し休泊料として一二六文ずつ支払う。当日は玄関に幕を張りめぐらし関札をかかげ主人始め宿役人たちが丁重に出迎え、宿から献上物として玉子二一個を差上げた。
天保六年五月一一日青山播磨守休泊の場合は、前日青山家より宿割役人として鈴木所左衛門外四人が宿本陣に休泊し見分し、その旅籠代として下一〇五文を支払った。
翌五月一二日青山播磨守が本陣休泊となり本陣には上下二七人、供役人たちは下宿一三軒に分宿し本陣の休泊では上二〇〇文、下一五〇文、日雇宿では一三六文を支払う。本陣の対応についてはいつものように玄関には幕を張り関札を懸ける。本陣よりの献上物としては玉子二五個を折詰にして差上げる。