尾張徳川家の中山道通行について 本陣休泊の記録の残っているのは、「留記」では安政元年(一八五四)三月三日と文久三年(一八六三)二月二〇日、同年五月一四日である。
安政元年の通行では、二月五日殿様(尾張中納言)参府につき、本陣・下宿見分役として、太田代官須加井重五郎他手代三人が本陣に休泊見分している。下宿については手代衆が見分をした。二月二四日には、宿割林久右衛門、渡辺八郎五郎、冨永助之進下役ら上下二〇人(馬二匹)休泊し宿内を見分する。宿絵図へ間数などを書入れ絵図でもって見分となる。ほんじんからは本陣絵図一枚を差し出している。三月三日「尾張中納言徳川度勝御参府ニ付御発駕 三日中津川宿本陣ニ御休泊 御本陣御支度 夕四〇人朝四〇人御下宿百二拾軒同断」(留記)とある。
文久三年の場合は二月一一日本陣の見分役として徒目付福住権造、小人目付は前田治兵衛ら三人休泊し、本陣を検分する。二月一八日には宿割神尾藤五郎他下役二人上下一六人が休泊する。一人一五〇文ずつであった。二月二〇日の頃には「尾張大納言(茂徳)正月四日出立され上京 二月九日参内 一一日発駕 一五日お着になり 三日間滞留となる 本陣入は四〇人程で 下宿一一七軒 太田代官が町端までお迎えする 朝茶屋坂までお見送り」とある。