岩村松平家

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岩村松平家の中山道通行は、松平能登守だけについても留記では次のようになっている。
文政一〇(一八二七)年 六月 六日
 〃 一一年 六月 九日
 〃 一二年 六月二七日
天保二年 六月二九日
 〃 四年 六月二九日
 〃 八年 九月二六日
天保一〇年 七月 七日
 〃一一年 五月二一日
 〃一二年 七月一三日
 〃一四年 七月一八日
弘化二年 七月 三日
 〃 三年 五月一五日
弘化四年 七月 六日
嘉永二年 七月 二日
 〃 三年 四月 九日
元治元年 五月二三日

 岩村松平家の場合は参勤交代としての通行ではないが、幕府役人として大坂加番、大坂城代などの要職に任命されその通行が多く、また領地が中津川宿との距離的な関係から、中津川宿本陣での休泊が多くみられる。その二~三例をみることにする。
 天保二年(一八三一)の通行では 六月二五日宿割大野哲蔵外上下六人が休泊した。上は一人一七四文、下は四人一五〇文ずつ支払う。二九日当日は、上下二五人内二人日雇。一人一三五文、下宿一五軒の内七軒は日雇宿であった。総人数は八三人大払は一人一四八文ずつ、二五人、内二人台所支度。献上品として上物玉子二五個折詰にして差上げた。門は幕と懸札、板の間も幕がはられた。
 天保一一年(一八四〇)の通行は、昼休息であった。その様子については、ぜんめし一九人前。上物菓子一箱、扇子対差上げるとし、ぜんめし代として四八三文受取っている。
 弘化二年(一八四五)の七月の通行は、三日に宿割大野源兵衛ら上下五人が宿泊の予定であったが家内病気のため、急に上問屋に案内し休泊となる。下宿の宿割がすんだので請書を一通差出した。当日は本陣入上下二二人、内四人は食事は不要ということであった。一人一七四文ずつ。下宿九軒大払。日雇方六軒帳場共一四〇文ずつであった。また本陣より献上物としていか二五杯差上げ、岩井助七は扇子一箱を、また菅井嘉兵衛は玉子五〇箱入、扇子一箱を差上げている。