彦根井伊家の場合も、中山道の通行記録が「留記」の中に、文政八年以降慶応二年までに五回を数えることができる。その中で二例についてみることにする。
天保一三年(一八四二)五月二〇日中津川宿本陣で小休されている。この通行については、
一四日彦根の飛脚が二人本陣で挨拶。一六日には関札方川原惣右衛門ら五人が宿見分。一七日には宿割役人ら四人で休泊し見分をしている。本陣側からは下宿帳一冊と扇子一対、酒肴を差上げた。ところが翌一八日早朝野尻宿より飛脚がきて、休泊先を大井宿に変更する旨の通知が届いた。この間野尻・三留野地方に大雨が降り、往還押水が出て三日間大井宿に逗留となる。二〇日天候も回復し大井出立となり、中津川宿本陣で小休となっている。
嘉永六年(一八五三)の通行では、まず五月二五日宿割役人ら上下八人が休泊の予定であったが、丁度宮津松平伯耆守の休泊と差合ったので上問屋に案内休泊ということになった。二六日には彦根少将(直弼)の本陣休泊となった。本陣入は五九人の触れであったが実際は四九人となった。下宿は五八軒銘々二〇〇文ずつ払った。日雇分は一六〇文日雇方は一二軒、小荷駄馬宿は三軒九匹であった。関札は淀川・下町和右衛表の二か所に立てられた。門、玄関には麻幕が張られ、掛札もかかげられた。出立の折には玄関にてお目見が許された。