京都所司代の下向

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宝永七年(一七一〇)京都所司代の松平紀伊守が、中津川宿小休で江戸へ下向している。その折の通行についてみると、大井宿が泊所(本陣)であったので通行の前晩、中津川宿から妻籠宿までの問屋一人ずつが大井までご機嫌伺いに赴いている。中津川宿からは四郎右衛門が行き、鯣(するめ)三把を献上し、金一分の下賜をうけている。通行の準備としては、町の通りには、まき砂をし、家々の前には手桶に水を汲み、ひしゃくを用意したとの記録がある。町口(宿の入口)への出迎えには、問屋・年寄二名が裃を着用して出た。問屋場の会所では、問屋が裃を着、年寄役と肝煎が袴・羽織を着てそれぞれの仕事をした。杖突二人が御用箱の先につき先払いをした。本陣の前にも杖突が二人ついたというから出発の時本陣前での人員整理をしたものであろうと思われる。
 尾張徳川家からは、郡奉行の生駒伊右衛門が中津川宿へ、同役の荒尾六右衛門が落合宿へやって来た。地頭の山村家からは福島宿から千村庄左衛門が大井宿まで使者として派遣された。中津川代官所からは井沢小市郎が町まで、堀尾作左衛門が落合宿へ派遣されている(人馬の継立の項参照)。