長崎奉行の通行

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幕府の職名で、遠国奉行でもあり、外交、通商関係の仕事を所管した役人であった。中山道を通り中津川宿で休泊した長崎奉行は、次のようであった。
弘化三(一八四六)年八月朔日  平賀信濃守
嘉永二(一八四九)年二月二四日  大屋遠江守
 〃三年     七月朔日  内藤安房守
 〃四年     二月二九日  高木作左衛門
嘉永四(一八五一)年七月晦日  牧志摩守
 〃五年     七月晦日  大沢壱岐守
 〃六年     八月朔日  水後筑後守
安政元(一八五四)年七月二七日  荒尾石見守
安政二(一八五五)年七月一二日  川村対馬守
 〃三年     八月一六日  荒尾石見守
文久元(一八六一)年八月朔日  高橋美作守
 〃二年     八月八日  大久保壱岐守

 嘉永二年(一八四九)の大屋遠江守の休泊についてみると、前日二三日に宿割の役人ら上下五人が泊っている。宿代は上が一人一六〇文、下は四人一三二文宛であり、荷宿一軒三人で一三二文であった。奉行の手付ら六人は上問屋に泊り、木銭・米代を払い、下宿の見分をしている。両方ともに村方より酒を差出している。二四日当日は上下三〇人が本陣で、上一〇人は一六〇文ずつ、下二〇人は一三二文ずつで、下宿一九軒も同様であった。勘定方ら七人は上問屋に、手付ら六人は源吾方に、普請役ら四人は坂本屋であった。この三軒は二〇〇文ずつに増した。門、玄関には幕をはり、掛札をした。上物はいか一五杯を差上げたとかかれている(留記)。