大坂定番(大坂城番)は、大名が幕命で大坂城に在勤して、京橋口、玉造口の警備にあたることであった。定員は二名で、主に二万石以下の小大名が任命されている。享保一三年(一七二八)の定番及び番衆の通行は次のように記録されている。
酒井紀伊守 七月二八日泊 番衆は七月二九日~八月 一日泊
米津出羽守 八月 四日泊 〃 八月 二日~ 三日泊
山口伊豆守 八月一一日泊 〃 八月一二日~ 一三日泊
小堀備中守 八月一六日大井泊 〃 八月一四日~ 一五日泊
これにみるように、大坂定番の交代期のため、番衆(家来の意)を含めた通行で、七月二八日から八月一五日まで、一一日間本陣が休泊所となっている。またこの時には宿との間で金銭上のトラブルがあり、尾張表からの命によって、旅籠代を書きあげて提出している。
また幕末期における通行については「留記」には次のように記されている。
文政一〇(1827)年 八月二〇日 内蔵源蔵
〃 九月二〇日 山口但馬守
〃 九月二一日 大見儀助
安政 二(1855)年 四月 五日 加納備中守 西生寺にて小休
〃 八月二一日 神保山城守 小休
山口但馬守の通行についてみると、八月二四日には宿割役人達が大井宿泊りで翌日朝中津川の本陣に着き小休、そして下見分をしている。九月二〇日には但馬守以下二三人が本陣入りし、下宿は八軒、日雇宿五軒、旅籠代一三二文で、日雇宿の旅籠代は一一六文の支払いをしている。
また安政二年(一八五五)の加納備中守の小休は、西生寺となっていることについては、本陣へは勅使が休泊することになっていたので、西生寺小休となったもようである。