大坂加番というのは、大坂城の整備にあたることが任務であった。定員は四名で大坂定番の加勢として小大名が交代で勤めた。苗木遠山家も五代友由(伊予守)が享保四年(一七一九)二月に、また一〇代友隨も大坂加番を勤役している。
中山道を通行し中津川宿で休泊した大坂加番たちは、
文政一一(1828)年 四月一六日 安部丹波守(遺骸)
〃一三年 八月 九日 柳沢弾正小弼
天保三(1832)年 七月二四日 阿部摂津守
〃 五年 七月二三日 松倉伊予守
〃 六年 七月一七日 松平能登守
〃一〇年 七月二三日 松倉伊予守
〃一三年 一一月一八日 阿部摂津守(遺骸)
天保一五(1844)年 八月 九日 柳沢和泉守
弘化 三(1846)年 八月 八日 稲垣摂津守
安政 五(1858)年 七月二三日 安部河内守
文久 三(1863)年 七月二三日 鳥井丹波守上問屋で小休
〃 八月 九日 黒田伊勢守
慶応 二(1866)年 三月二四日 松平摂津守 (留記)
となっている。文政一一年(一八二八)の安部丹波守と、天保一三年(一八四二)の阿部摂津守の場合は 二人とも任地において死去し、遺骸の通行休泊となっている。安部丹波守の場合は、本陣入りは二六人で一人一七二文ずつ支払われ、下宿八軒、日雇宿五軒一二八文ずつの支払いとなっている。なお本陣からは献上品として饅頭と花一本が差上げられている。休泊の状況については役人通行と特別異ることがないので略す。