日光例幣使の通行

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日光例幣使とは、江戸時代朝廷より日光東照宮の四月一七日の大祭に派遣された奉幣勅使のことである。勅使派遣は元和三年(一六一七)の日光東照宮の落成の時に始まり、正保三年(一六四六)からは幕府の強い要請もあって毎年奉幣使が送られるようになり、例幣使と称されるようになった。
 例幣使一行の通行は正使・副使以下五〇人前後で、三月下旬京都をたち一路中山道を下り、倉賀野で分れて例幣使街道へ入り今市から日光街道を経て日光に入る。儀式を終えた後の帰路は日光道を通って江戸へ入るのが通例だった。
 例幣使の通行の場合は、中津川宿本陣がほとんど例外なく常宿となっていた。しかし大雨など自然災害により通行不能な時や、中津川宿前での日程の狂い等で変更になることはあった。文政八年(一八二五)から慶応三年(一八六七)の約四〇年間に三回小休となり、あとは泊りになっている。その三回は文政九年(一八二六)と天保七年・一一年である。文政の時は木曽川が増水し、太田宿・鵜沼宿間が満水となり予定がおくれ、大井宿で泊り中津川宿は翌日小休となっている。天保七年(一八三六)の時も大雨のため大井宿で泊となる。天保一一年(一八四〇)の時にも途中大雨にあい大湫宿で泊となり中津川宿は翌日小休で通行となっている。また日光例幣使が五月に延期されるという年もあった。これはこの年の二月に仁孝天皇の崩御があり一か月延びて五月の通行となったのである。この年は人数も三一人で例年に比べ小人数であった。
 例幣使一行の人数については、年ごとに多少の違いがあり一定していない。「留記」で知る範囲内では、幕末一〇年間では、最低三一名(弘化三年)、最高七六名[万延元年文久二年]、四四、四五、四六、四八、五〇(二回)、五一、六九名となっており定っていない。
 持物についての記録はあまりみられないが、文政一二年(一八二九)の折には、駕籠、長持二棹、丸持四棹、乗替籠四挺と記されている。本陣休泊の場合は門に立幕を張り、玄関に紫縮緬幕、板の間には麻幕を張り迎える。一行が宿に到着すると、正使、副使以下主だった随員は本陣に入り、他の随員はそれぞれ下宿に分宿する。下宿としては、田丸屋十八屋・飛驒屋・長門屋・大黒屋・備前屋・上問屋などの名がみられる。
 例幣使の宿泊料は、文政八年・天保一〇年・嘉永五年の三か年をみてみると、一二八文、一四八文、一三二文で、非常に低廉であったことがうかがわれる。当時諸侯との比較をしてみるため嘉永五年(一八五二)をみてみると、
  月 日  休泊者  宿泊料
 四月 六日 日光例幣使 城坊左大弁宰相 一三二文
  〃一二日 因州 津田伊織守一行上 三〇〇文
     〃    中 二八〇文
     〃   日雇方 一六四文
 五月一五日 京町奉行一行上 四〇〇文
     〃 次 二〇〇文
     〃 下 一三〇文
 七月晦日 長崎奉行 大沢壱岐守宿割 一六〇文
 八月 日 大沢壱岐守一行上 三二四文
     〃 次 一六〇文
     〃 下 一〇〇文
 九月一三日 永井肥前守 二五〇文
  〃 供方 二〇〇文
 日雇方 一五八文

 となり、諸侯が二五〇文以上位であるのに約その半額と低かった。従って色紙・短冊・扇面に筆を染めて宿に遺したものと思われる。中津川本陣にも例幣使の揮毫なるものが多く残っている。
 また例幣使の宿泊の折には、本陣より必ず献上物としてその地方の特産品が贈られている。中津川では饅頭が多く献上されている。この外にも、餅・菓子・お茶・川魚・鯉・柿・筍・扇子等があげられる。かわった対応としては、酒を好まれる方には川魚の鯉などを献上して喜ばれたり、また例幣使から特別の送り物もあったようである。武者小路宰相中将(嘉永三年)には例年の献上品とは別に菓子一箱を送ったら、歌の師範としても高名である宰相からは返礼として自詠色紙一葉を拝領している。油小路宰相中将の場合(文久三年)には、返礼として災難除けお守り、雷除けお守り五六人分を拝領している。
 おわりに中津川宿に宿泊した日光例幣使を一覧にまとめる。