茶壺道中

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茶壺道中とは、将軍が山城国宇治より年間に飲用する茶を求める行事であった。宇治から禁裏に茶壺を献上することは室町時代より行なわれていたが、幕府への献上は寛永九年(一六三二)より制度化された。立春より一〇〇日過ぎた頃、江戸より東海道を経て茶壺を宇治に下し、御物茶師上林家で茶詰を行ない、同時に禁裏へも献上し、その帰路は中山道を通り、土用の二日前に江戸到着が通例となっていた。この通行には上り、下りとも多くの人馬を徴用して盛大な通行であったので、沿道の農民には大きな負担となった。なおこの行事の終るまで新茶の発売は許されなかったという。
 この茶壺道中の目的は、幕府の権威を内外に示すものであり、従ってその茶壺を茶坊主達が持ち運ぶためには、警備をつけて仰々しく練り行くので、この行列を茶壺道中と呼んだものである。
 中津川宿本陣での宿泊記録は、延宝八年(一六八〇)、延宝九年(一六八一)、天和二年(一六八二)、貞享三年(一六八六)、貞享四年(一六八七)、寛延元年(一七四八)の六か年分の通行の記録(古来留帳)がある。
 茶壺道中の中山道での旅程については、延宝八年(一六八〇)をみると、宇治を六月一六日に出発し、途中の宿泊の宿駅は、守山(一六日)、醒ヶ井(一七日)、加納(一八日)、御嵩(一九日)、中津川(二〇日)、上松(二一日)、奈良井(二二日)、下諏訪(二三日)、これより甲州街道に入り、台ヶ原(二六日)、勝沼(二七日)、猿橋(二八日)、八王子(二九日)より江戸へと、一二日間の旅程であった。その他の年度をみても延宝八年の通行の場合と同じ宿での宿泊であり、茶壺通行の場合も宿は常に一定していたようである。
 茶壺通行の対応となるとなかなか大変であったようである。中津川宿での対応をみてみる。茶壺通行となると多くの人馬を要したので、助郷村へ人馬の触状が出される。延宝八年では「先般も申しつかわした通り 茶壺七〇丁増え 人馬も増やすので 高一〇〇石につき人足一一人 馬三匹の割で六月六日までに中津川宿へ詰めるように」という通知を、中津川・落合両宿問屋から助郷の村々へ出している。特に苗木領の助郷の村々へは天気が悪ければ前日に木曽川を渡るように指示を出している。なお持物として例年のように柿紙、こも棒、松明(たいまつ)、細引(ほそびき)を支度してくるように併せて連絡している。
 一方尾張表からも迎えるにあたっての触状が届いている。これは中津川宿だけでなく鵜沼宿から落合宿までの各宿に対してのものである。各宿々の問屋・庄屋宛に、茶壺通行の筋道では橋、道路の掃除、具合の悪い所は修理して人馬の通行に滞りないようにせよとの内容であった。また宿本陣に到着した茶壺は玄関の式台に安置して厚く礼をつくさねばならないから、壺台の不足しているところは早々に拵えて、茶壺の数の通りに心得ておくようと命じている。
 通行に際して集められた人馬は、延宝八年の例で見ると、中津川・落合・大井各村含めて八七五人・馬二二三匹が動員されている。その内訳は助郷村々より六八一人、馬一五〇匹が徴用され、落合村より人足四四人、馬二九匹、中津川村より人足一五〇人・馬三四匹、大井村より馬一〇匹が徴用されている。また天和二年(一六八二)の人馬使用内訳ついてみると、次のようである。茶壺一八荷、一荷に七人がかりで一二六人。次の一四荷の茶壺について、一荷に九人が受持ち一二六人。わら指御壺一一荷があり、一荷に二〇人がかりで二二〇人。長持三棹、一棹に八人がかりで二四人。馬付乗がけ三五駄付荷四九人で一七八人。継続かご三挺で一挺に六人がかり一八人。分持二四荷があり一荷に二人がかりで四八人であった。この時集められた人馬は、助郷村々より人足八三三人が動員され、払人足七四〇人、余り人足九三人となっている。又徴用された馬は二〇四匹であった。他に中津川・落合両宿より御馳走人足二八〇人、馬四五匹も徴用され荷物の輸送にあたっている。
 このように多くの村々より農民が徴用され、茶壺通行が如何に大規模なものであったか知ることができる。茶壺での宿割は、茶道頭は本陣休泊となり、番衆は脇本陣及び下宿数軒に分宿する。本陣では茶壺通行の際は道路を修復、また小石を敷き砂を盛り縄張りをしている。そして家道をかざり家毎に行燈をともし、宿舎の前には高張提灯二張を立て、不寝番をして警護にあたっている。延宝八年(一六八〇)の中津川宿本陣宿泊では本町夜番一〇人、新町夜番一〇人を立て警備にあたった(御茶壺御馳走役人付之覚)。