原則として労働力の移動が禁じられていた江戸時代、庶民は無条件で旅行をすることはできなかった。宿駅の諸施設や宿泊設備は、幕府役人らの公用旅行を中心に考えてつくられており、一般旅行者の便宜を図ったものではなかった。また、旅をする先々の村役人や関所役人など宛の、旦那寺か庄屋(名主)が発行する次の様な内容の「往来手形」を携行しなければならなかった。
①生まれた国・郡・村名と身分②旅行の行先と目的③関所の通行願い④病気や死亡したときの処置など(市史・中巻別編第三章)それに一人旅の宿泊は禁じられていたが、慶安二年(一六四九)に一宿一泊が許された。同じような旅行者の一宿一泊の布達が「…旅人に二夜共泊り候ハバ町中相改の慥に無之者一切留置申候…」と、延宝二年(一六七四)一一月に道中奉行より出ており、二夜以上の宿泊をした者があれば、幕領は代官所、私領は領主に届けることを義務付けている。この布達が出されたことにより、一人旅の者が宿泊を断られるようになり、貞享四年(一六八七)七月、道中奉行は「…壱人旅人ニハ宿借(貸)シ不申様ニ相聞ヘ不届ニ候…」と、一人旅でも宿泊させるように触を出している。
このような規制や制限の他に、ふすま一枚で仕切られた客室や見知らぬ者との相部屋という安心して宿泊できない状態や、旅行中の病気など旅をする者にとっては難儀なことが多かった。
安永二年(一七七三)傷感[腸チフス]が大流行し、西国巡拝に出かけていた岩村領飯沼枝村大野の市郎右衛門夫婦が罹病し死亡している。また、岩村領東野村[恵那市東野]の者五人中三人が西国旅行の途中に相果てた(宮地家文書)。旅行中で発病したり、死亡した者の取扱いについては、第四章・村の生活・第一一節事件の中で、元禄元年(一六八八)の道中奉行の布達を要約して掲載したが、関口源助釣返し一件の様に、趣旨を理解し運用されることが確実には行われなかった。
このような旅行者の保護を目的とした布達は、元禄元年(一六八八)以後、たびたび出された。しかし、旅行先での病気などの不測な事態はいつ起るか分からなかったし、このことを含めて支配する側の規制や宿駅が自分たちの利益を守るため、一般旅行者に制約を強いたのも事実であった。寛保二年(一七四二)一一月、尾張領湯舟沢村は前年の中山道付替え(第三節三項参照)により街道沿いの村になったため、村内の往還での煩(わずら)い者(病人)は、往還方の助成金を受けていないことを理由に、助成金を受けている馬籠宿でその始末をしてやってほしいと願い出ている(島崎家文書)。この湯舟沢村の願書例でもわかるように、宿場や街道筋の村では、煩雑なことが起きるのを迷惑に思い、なるべくかかわりあうことを避けていたと考えられる。
当時の旅行を考えるとき、所用の場合を除き信仰を抜きにすることはできない。これは旅行に出る理由を信心のためとすれば、容易に出かけることができたことと、訪れる名勝旧跡は神社仏閣が中心であったからである。この地方に残された記録も京都、大坂見物と西国三三か所巡拝。それと四国へ渡る金毘羅参り。伊奈路や木曽路を通り善光寺へ、遠州秋葉山から三州鳳来寺山への参詣。「おかげまいり」を含めて正月の伊勢代参などと、神社仏閣中心の旅が一般化していた。
これらの旅行はかなりの費用を要し、どの村でも経済的に余裕のある階層の者が旅に行けたのであり、西国から金毘羅への旅行に行く人は、村内でもごく限られ、同行する仲間も広範囲な地域にまたがることが多く、費用は講による積立金が多かった。