おかげ参り

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正月の始めや村の寄合などで伊勢神宮や村が勧請した神社などの神符を納めたり、新しい神符を受けに行く者(代参)は、文政二年(一八一九)の飯沼村『藤四郎日記』の元旦の記事に見られるように鬮(くじ)引きで決められた。
 「…役人中江年頭祝儀申入れ村方残らず対面す 夫より御神酒開き相済み 夫より伊勢 秋葉 豊川 州原 其外所々代参御鬮相済申候 伊勢江与吉殿 秋葉より豊川江増右衛門 州原清蔵参り…」
 こうして村や講の代参人として旅に出る者でも、貯えがなければ、積立てられた旅費が村や講から出ても、なにがしかの小遣銭などは借りなければならない者もいた。また、代参になる資格のない奉公人や小作人などの従属した階層は「おかげまいり」という伊勢神宮へ集団巡拝に抜け出して行くよりほかに、旅に出る機会は、なかなかめぐってはこなかった。近世の大規模な「おかげまいり」は、七回あったが、市域でのくわしい記録は、明和八年(一七七一)の『藤四郎日記』(飯沼・宮地家文書)の他には残されていない。
 
 七月十六日天気吉 おまら伊勢へ抜け参り仕り 私 急につれ参り候 下女きくも参り七ッ時[午前四時]出大沢に参り候 当村よりも二度に十八人参り申候 阿木より二百人余り参り 岩村よりも百七八十人参り申候 四月五月は一日に十七万より二十万人まで参り候由 伊勢にて咄し御座候 所々御抜降り候と申す風聞より出候
 
 と、周辺の村の「おかげまいり」の人数や伊勢で聞いた話を書いている。この年の「おかげまいり」には、約二〇〇万人が参加したと言われている。おまらときくは「ぬけまいり」を、藤四郎に断りなく出かけようとしたことが、「私急いでつれ参り」と、書かれていることで推測できる。「おかげまいり」とは、子供が親に、奉公人が主人に、妻が夫に……と、従属している者が無断で家をぬけ出し、わずかな銭をふところに伊勢神宮へ参詣することであるが、これらの人々が困らないため、道中筋には食べ物や銭を施す人もおり、これを「報謝の施行」と言った。
 七月一六日、藤四郎らは他の者[人数不詳]たちと飯沼村を後にした。一行が伊勢神宮へ足を踏み入れるまでに、十七日横山、一八日佐屋、一九日桑名から舟に乗り白子へ、二〇日は櫛田に宿泊した。二一日櫛田を出て両宮を参拝し朝熊山に登り、宇治山田妙見町尾張屋彦兵衛方に足を留めた。これまでの六日間は天候にも恵まれたが、
 「廿二日雨ふり大風 大雨にて岩村廿七人組と一緒に逗留仕候 当村ほかの連中はぐれ二か所に泊り申候…」
 と、二二日は大荒れとなり帰りの足を留められた。四ッ時より宮川が増水し、小俣より妙見町が冠水、岡本町は床下まで水がついた。
 二三日 天気が回復し宇治山田を出発するが、まだ、水位の高い櫛田川などを渡るのに苦労をしながら歩く。この日は松阪に泊る。
 二四日 神戸の高岡川の氾濫は、二か所一八〇間(約三二六m)の堤防を破壊し家屋四〇戸を流した。町の中の状態が悪いため一里半(約五・九km)の廻り道をして町外れに宿をとった。途中には水深五尺(約一・五m)もある所を通らねばならなかった。
 二五日 桑名の渡しが止ったため、四日市から舟に乗り名古屋へ、この日は名古屋に泊る。
 二六日 柿野に泊る、二七日所用のため岩村泊り。
 二八日 飯沼村の家へ昼どきに到着する。
 「村中酒向に御出也」と日記に書かれた村中総出の歓迎は、これまでの村の習慣なのだろうか。大雨・大風を無事に乗り越えたことを祝ってのことなのか。暴風雨に遭遇したこの旅の苦難の様子が目に見えるようだ。