秋葉講

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飯沼村では各神社の代参を元旦に決めているが、尾張領茄子川村の久左衛門らは「七日晴 年詞之御祝義に出候儀 久々利より御差図有之候 同夜篠原にて秋葉鬮(くじ)致す」と一月七日に秋葉山行きを決めたことが、慶応二年(一八六六)の年内日記帳(藤井家文書)に書かれている。
 このことは、村年礼のときに村方全員で鬮引きがなされた飯沼村と異なり、一つの集落としてでなく「講」として秋葉参りが行われたことが分かる。また、伊勢参宮には「伊勢太々講」も組織されており、伊勢御師河井太夫から永代献燈をした一〇人の者に礼状が届いている(第四章七節参照)。この二つの講仲間は共通し、茄子川村の中町、鯉ケ平近辺の者たちが中心であったと考えられる。茄子川村の他集落では、どの様にして伊勢や秋葉山などの代参がなされたか、しかも「秋葉講」を構成する人々のことなど資料が乏しく分からないことのほうが多い。
 現在でも講中参りで賑う火伏せの神である「秋葉大権現」銘のある石造りの常夜燈は市内各地に見られるが、この中から近世につくられた茄子川・千旦林両地区の常夜燈を表にまとめてみた。これらの常夜燈は、道路沿いにあり、目につき易い。造立は行政の小さな単位である「組」によってなされておりこの常夜燈を中心に「秋葉講」が組織されていた可能性が強い。
 茄子川・中町にある一対の常夜燈は「是より あきはみち」と、道標も兼ね、路傍の常夜燈をたどって行けば、秋葉大権現社に着く様な錯覚にとらわれる。

Ⅵ-138 秋葉燈籠


Ⅵ-139 千旦林 茄子川地区の主な秋葉常夜燈