秋葉山から鳳来寺へ

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久左衛門と長八郎は二月一日秋葉山へ向かい出立するが、他の講連中は翌二日に茄子川村を出発している。
 岩村から木ノ実峠を越え、上村から大桑峠、根羽村[長野県下伊那郡]の招扇屋にて二人と一行は落合った。天龍川を渡り遠州秋葉山へは四日の八ッ頃[午後二時]に到着するが、前夜は川角[愛知県北設楽郡]に泊った。秋葉山にて五〇人分の講金二四両二分一朱と銭一〇〇文が集められ、その内・金二分二朱と銭七〇〇文(祝儀)・金三分二朱(附太々)・金二朱と銭四貫二〇〇文(御茶料)として遣われているが、残金の使途は分かっていない。この後旅行日程は
  五日 石打[静岡県天龍市]山形屋泊り。
  六日 鳳来寺を参詣 新城[愛知県新城市]柏屋に泊る。
  七日 豊川稲荷参詣 岡崎[愛知県岡崎市]上伝馬町津嶋屋泊り。
  八日 岩津天満宮[岡崎市岩津町]より柿野へ。
  九日 柿野より下街道へ出て茄子川村へ帰村。
となっており、秋葉山に参詣すれば鳳来寺に寄るのが通例となっていたようだ。「関東朝日講定宿附」(市岡家文書)によれば、東海道掛川宿で分かれた秋葉道は
 ・森町-一ノ瀬-犬居-坂下・秋葉山-石打-大平-大野[以上静岡県]鳳来寺-門谷-新城-豊川-東海道御油宿[以上愛知県]まで朝日講の定宿が刻まれており、秋葉山と鳳来寺は定宿附でも一つ線で結ばれ参詣コースとなっていた。
 また、中津川宿本陣の市岡殷政は弘化二年(一八四五)九月、用向きのため恵那の地をはなれ、三河の武節[愛知県稲武町]から伊那街道を通り遠江へ、それから西美濃へと歩を進めている。その紀行の様子を「道中雑記」として残しているが、その中から鳳来寺より秋葉山までのことを抜き出すと次の道順になる。
  二一日・二二日 岩村泊り。
  二三日 武節 いづもや泊り。
  二四日 角屋[鳳来町門谷]泊り。
  二五日 鳳来寺参詣 戸倉泊り。
  二六日 秋葉山参詣。
 この様に鳳来寺から秋葉山へと足を延ばす場合もあった。いずれにせよ二つの山をめぐるのは、当時としては手頃な旅行であったのだろう。