嘉永三年(一八五〇)三月、中津川宿問屋市岡長右衛門は、中津川代官小島与一右衛門に「善光寺参詣女人手形発行願(乍恐奉願上候御事)」を福島表に進達して欲しい旨、願いを提出した。山村甚兵衛の知行所では「善光寺参り」の女人手形は「…御支配御陣屋江御届け申上げ 御手形頂戴仕り…」と庄屋が発行できず、私手形の発行を願い出たものである。苗木遠山家や岩村松平家、それに千村平右衛門の知行所でも、女人手形発行には、山村甚兵衛知行所のような手続を必要としたのか、また女人の旅の総てに代官所などの公的機関が手形を発行したかどうか細かい点は分からない。
とにかく「……手数相掛り迷惑仕候に付き 過半数は抜参りと唱え 御手形御願申上げず…」と木曽福島や贄川の関所を避け「…右は御知行所にて年内多数の参詣と申…」と、伊奈道中、飯田道を往来手形を持たず通行した女人参詣者がいたことがこの願書から分かる。このような間道を通り異変(羅病や病死)があったとき 「不容易不都合」であり、手形を持たないことが心配なことだとも言っている。
本街道の通行は木曽谷宿村の利潤になること、女人が手軽に「善光寺参り」ができることを理由に「私手形」の発行を願い出たわけであるが、それは木曽谷の宿々の経済の向上を図ったものか、女人の通行の便宜を考えてのことかその真意はわからない。その他に願書は「…御知行所内善光寺参詣女人共 木曽谷之御振合[他と比較してのつり合い]に準シ私手形を以て」とあるように、木曽谷では「私手形」で女人の手形が発行されている。なぜ、そのような差異があったかは、この願書から知ることはできない。「牛に引かれて善光寺参り」と言われているが、女性が旅に出ることは容易なことではなかった。