茄子川村の久左衛門ら四名は、吉日を選び金毘羅参りに出発したのが、元治元年(一八六四)の一月二四日であった。大井村境まで家族に見送られ、小吉、伊之助、治郎吉は槇ヶ根の東国屋まで随伴した。東国屋で篠原からの仕出し料理とひょうたんの酒を酌みかわし、見送りの三人とはここで別れた。東国屋で行き合った中津川の近又に、釜戸村[瑞浪市釜戸]七兵衛への書状を頼み、近又とは下街道[名古屋方面]との追分けで分かれ、吹雪の中を宿泊地の大湫へ向かったが、大湫へは早く到着してしまった。宿内の小笹屋で酒を飲み身体を暖めてから、細久手宿まで足をのばした。
翌二五日は快晴となる。もろ木で一服し、十本木へ通りかかると、茄子川村諏訪の前の惣平の女房に行き合い家への手紙を預ける。太田宿福田七郎右衛門方に着き、所用のため中津川の万兵衛を待つが、万兵衛は現われず名古屋から手紙が届き、折返し万兵衛への返事を持たせた。久左衛門は一か月を越す長旅になるので、失念したことを書き、惣平の女房に持たせたり、近又に七兵衛への書状を頼んだが、これは、家を留守にする不安や心残りのことがあったからに違いない。
二六日太田宿を出発した四人は、加納、関ヶ原、高宮に宿泊、途中で岩屋観音[加茂郡坂祝町]や南宮社[不破郡垂井町]などを参拝し、一月二九日 守山宿笹屋六郎兵衛方に泊った四人は、瀬田から石山寺へ寄り大時雨の中を舟で大津へ出て、三井寺下住吉屋庄右衛門方に足を留めたのが二月一日である。