京都・大坂の見物

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二月二日三井寺下住吉屋を出発した四人は、山科の近くより大谷を越え京都の街に入る。清水寺、八坂神社を参詣し、四条通りを歩き、麩屋街小池下ルの伊勢屋久兵衛方を訪れ、同家の紹介にて隣の柊家に京都滞在の間、逗留することになる。久左衛門は「…誠に諸家様大勢にて諸人共大きに賑敷事に候…」と京都の印象を書き記した。
 四人が京都に滞在する六泊七日の間、関係はわからないが伊勢屋久兵衛の世話になり、京見物には、必ず手代の周助か番頭の勇助が案内している。京都とその周辺の参詣や見学した場所はⅥ-141表にしたが、四日の若王子社境内での伊勢久の仕出し料理を「…此所へ伊勢久より 手積りの酢子 酒仕出し下され…」と入れ物の重箱のことや、「…野風呂[酒をわかす道具]は茶銅之紋付…」とか、道具や敷物を細かに書き、「…此所は武家町人 女中皆酒肴持参にて 志わ延しの処なり 景宜敷所なり…」と 茄子川村にいては経験できない自由闊達な雰囲気と都会のはなやかさを書き、この三日から不快にて京都見物ができないでいる長八郎が、伊勢久兵衛のもてなしや、この場所にこれないのを「…この所長八郎参らず 誠に道中一の残念なり…」と惜しんでいる。

Ⅵ-141 京都とその周辺の見物場所

 京都に来てからの久左衛門らの関心は、神社・仏閣の参詣や見物の他に、前年二月に引き続き一月二一日に上洛した将軍家茂に拝謁することであった。二月五日には「…御公義様御参代これ有りと申し二条御城岸へ行く 勇助殿尋ねられ候処 今日の御参代は延引と承り…」と拝謁ができず、七日は「…将軍様御佛参これ有候処 一足の事で拝めず残念也」と、これまた将軍に会うことができず残念がっているが激しくゆれ動いていた政治とは関係のないところに彼等の旅はあった。
 七日夕食後伊勢屋久兵衛が柊屋を訪れ箱入りのカステラと曲物入りの松が枝デンブを「大坂江御越しの節 船にて召上がられ」と品々を贈っている。翌朝京都を出立し大坂に向かう。この日は橋本[京都府八幡町]に泊る。ここは淀川通船の湊で「…大坂へ通船の場所にて遊女等もこれあり 至て宜敷也」と書き留めている。橋本からは夜船に乗り淀川を下り、九日未明に大坂の八軒に着く。
 下船後の四人は天満宮を参詣、大坂城を見物し、日本橋北ノ詰の国分屋半左衛門方に四ッ半頃[午前一一時]に到着する。旅のほこりを払い服装を整え、長八郎ら三人は、当代随一の軽業師早竹虎吉を見物に出かけるが、久左衛門は親戚[関係不詳]である日本橋南詰黒門筋一丁目蟹口貞助方を尋ねて行く。「…蟹口貞助殿方へ尋ね行き名乗候 誠に喜び国の咄し致候処 いちいち聞き下され候て涙を流し喜ばれ候 夫より仏前参いたし…」と感激の対面であった。
 一〇日 蟹口貞助の世話にて桟敷を求め、中の芝居[中座]の芝居見物に出かけ、野ぶろで酒をわかし酢子、湯葉、板[かまぼこ]こんにゃく、玉子焼、豆ふ、みかん、昆布を肴に酒をくみ交わしながら、次の役者の芝居[演題は不明]を見物している。
  実川延三郎  嵐徳三郎  実川八百蔵  市川男女蔵  実川菊蔵  尾上芙萑
  藤川花友   中村仲蔵  荻野扇女   嵐吉三郎
「右芝居見物致し 桟敷へ蟹口より酒肴持参下され 酒は野ぶろにてわかす 肴は重壱組 重八角丸黒金筋懸巻絵付内朱の重也」と桟敷で芝居見物をしている風俗が分かる。