大坂から金毘羅様へ

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二月一一日には、蟹口貞助の案内にて新町を通り、「…聞き居ル通り りっぱ成る者也…」と、傾城を見物しながら大坂を離れる。この日は住吉[神戸市]一二日は大久保[兵庫県明石市]に泊り、一三日には乗船地である高砂浦本町つり屋伊七郎方に足を留める。この夜、宿の亭主は丸亀までの舟賃などの交渉に来て、「…入込みの場所御買成られ候哉」と、一人分の席が八〇〇文の相場のところ、一貫文で二人分の席を買わせ、つごう八人分の場所代と、ふとん代一人一八〇文、合せて四貫七二〇文を宿が受取っている。四ッ時[午前一〇時]小雨が降り出した中を船に乗る。船の名は「金観丸」、三人の船頭が乗り組み、大きさ一〇〇石余、四人はこの船に泊ることになる。夜が明け「…何程位い乗り候哉」と船頭に聞くと「…少々西風これ有るに付未だ出船に相成り申さず」と、追風にならず船は出ていなかった。以後風待ちの足留めは三日続くが、四人はつり屋の風呂へ入りに行ったり、貝を採り船頭に頼み「うしお」[魚貝類を塩味で仕立てた吸物]をつくり酒を飲み「…金毘羅山より下向船は、真追手にて夥敷数の舟也…(略)…誠にうらやまし敷事に候」と、金毘羅より帰る船を数えながら出船を待った。一六日の八ッ半[午後三時]に船出、二月一七日の正午に丸山[赤穂の内]に着船し船を休める。八ッ時[午前二時]になり再び船を出す。
 
 一八日備前国牛磨戸[邑久郡邑久町牛窓]の手前に錨をおろし風を待つ。物売りの舟や漁師の舟が、タバコ、酒、たまり、魚などを売りに来る。酒と魚を買求め、煮付けをつくり、船頭らと一緒に一升の酒を飲みながら昼食を摂り、追風になるのを待ちながら寝る。夕方になり風もよくなりようやく船が出る。船は丸亀を目指して夜の海を航行する。そのため小豆島あたりのことは道中日記には記述がなく、四国沿岸に近づき「八(屋)嶋団(壇)ノ浦見ゆる」とある。丸亀へは船出してから二日半かかり、風待ちの三日間を入れると、乗船してから実に五日半もかかった。一九日の四ツ半[午前一一時]に丸亀に着く。

Ⅵ-142 塩飽島絵図(写し)

 「海上殊之外おだやかにて無難 高砂より丸亀まで海上三拾里也」四人は船頭の引合せの宿、阿美屋為治郎方にて、身仕度をととのえ髪を結い松尾に向かった。松尾のことや金毘羅様のにぎわいを、
 「…すべて旅籠屋 遊女屋など数多く…町々端々惣て御門 すべて坂也」
 「象頭山金毘羅大権現御社の義は筆紙に尽き難く…参詣の群衆夥敷く 御祭日かと思う位」
と、その様子を書いている。この日は、門前の松尾町内町の小嶋屋源二郎方に宿泊する。
 二〇日朝金毘羅様を再度参詣し、善通寺、弥谷寺、屛風浦奥の院、白方海岸、多度津湊など弘法大師ゆかりの地を巡り丸亀の阿美屋に泊る。
 翌朝船に乗ろうとするが、大坂の同行一一名がおくれ、正午近く渡船する。
 「…風もなく静かにて恙なく渡船を仕候 大坂の拾壱人組直様善光寺へ参詣の由…」と聞き、久左衛門は「…象頭山へ恙なく参詣いたし候趣…」を、船中にて認め、家への便りを大坂の一行に託す。夕暮れに田ノ口[岡山県倉敷市]に上がり竹屋虎五郎に泊る。
 二二日今日の宿泊地となる備前一之宮[岡山市]へ向うが、途中庭瀬[岡山市]の近くで三升五合余のシジミを四〇文で買い、これを宿屋にて味噌汁にし夕食をとる。この日は備前一之宮吉備津彦神社門前の玉木屋勘左衛門に泊る。
 二三日片上宿[岡山県備前市]えびす屋林治に、二四日は片嶋宿[兵庫県揖保川町]大門屋に泊る。二五日西国二七番書写山円教寺参詣し加古川宿[兵庫県加古川市]大坂屋平八郎へ、二六日は兵庫の東実屋利兵衛に泊る。翌日、御台場などを見物する。
 二月廿七日快晴 宿出立致し清盛公御石碑并御台場見物 条喜(蒸気)船拾三艘兵庫湊に御座有リ御公儀様初め 尾張公 紀伊公 水戸公 薩摩公 仙台公 南部公 肥後公 藤堂公 井伊公 越前公 其外大大名様方持船也 是を見物致ス築嶋 経島寺并当所肴市色々のさか那夥敷事也 舟ハ大舟小舟凡六百艘余着船也 右条喜船ハ丈三拾間巾七間也 両方ニ車仕懸け有り 帆柱三本 中に火宛(煙) 弐本立テ有り 鉄ニテ張廻し庭ハ朱堅め也 外船帆柱萩之如し
 
 と、外輪船を観察し、長門下関、越後新潟を加え日本三湊と言うが、この湊が第一であるとも書いている。