一三日の朝食に麦飯とろろを注文し「…誠に御取廻し之中江一ぱいきげんに注文致す、朝になり御気毒に御座候得共…」と、旅も終りに近づき里ごころがついたのだろうか、恐縮しながら朝食を終え、家内安全の箱祓を一つと他に一品を記念にもらい、御師野村善吾に宮川まで見送られ伊勢を後にした。この日は六軒[三重県一志郡]に泊った。一四日この日珍しい体験をする。「…長八 文之助 平五郎車に乗る 御上洛[将軍家茂の上洛]以後旅人など多く乗る由…」と、当時は江戸など限られた場所以外では使用が制限されていた車に、追分から四日市まで乗っているが、残念なことにどの様な型式であるか分からない。全く新しい経験を三人はしたことになる。一五日 桑名から宮の渡しまでは「…九ツ時[午後一二時]出舟 追手(風)誠によく 八ツ時[午後二時]宮に着す」と、海を渡り無事名古屋に到着する。この日は名古屋笹屋清助に泊る。買物のため一六日も名古屋に足を留める。
三月三日に、一貫一〇〇文の駄賃を支払い大坂より笹屋に送った荷物が到着しておらず、届き次第に送ってくれるように頼み一七日名古屋を出発する。四人は大曽根にて昼食をとり、坂下[愛知県春日井市]の米屋泊り。一八日釜戸藤屋甚右衛門に泊るが「…膳部などを改め夜具も別段蔵より出し 多葉粉盆もよし」と、丁重な扱いを受け「何故かていねいにいたされ」と、書いているが、藤屋でも久左衛門らが、長旅を無事終えたことを喜び、精いっぱいのもてなしをしたと思われる。
三月一九日久左衛門らは、三三名の人々と馬三頭の出迎えを受けた。迎えの連中が酒、仕出し弁当を持参し、槇ヶ根東国屋で一緒に飲食するが、この日は「不宜候に付き」と、西坂[茄子川地内]の銀蔵方に泊り、二〇日に「帰宅を祝う」と、吉日を選んで出発した様に、帰宅するにも吉日を選んだのである。