Ⅵ-144・145表の「諸入用覚」「萬買物覚」の二つの記録からは質素な旅行であるような印象を受けるが、当時、旅行のための日数を五五日間も取れる人々が、どれだけあっただろうかと考えると、この旅行は最高の贅沢であった。また天保一三年(一八四二)一〇月の「善光寺参り」の宿泊費と比較した場合、この年の宿泊費は平均約一四一文。元治元年(一八六四)の宿泊費の平均約三〇〇文は二・二一倍となり、この二つの年の一〇両で買える米は、天保一三年には、二四俵二分。元治元年には一一俵六分[いずれも一一月岩村値段]と、その約二分の一の米が買え、地域差を考慮せず米値段の割合から言えば、貨幣価値は半分になっているので宿泊費は同価値と考えられる。
Ⅵ-145 萬買物覚 元治元年(一八六四)一月~三月
また、金毘羅参りでは、小遣いや酒代、それに茶代などをふんだんに使っており、この分だけ余裕が感じられ、やはりこのような旅行ができるのは、村の中でも限られた人達であった。
この節の始めに、数々の旅行の制約を記述したが、実例として挙げた幕末期の三つの旅行は、その厳しさが史料からはうかがえず、制約がなしくずしにされ、一つの秩序を維持しようとする枠が外されたと考えられる実例が多くなってくる。それと共に「講」による指定の旅籠など私的な機関により、諸施設が整備された。この金毘羅道中は「浪花講」の指定の旅籠を多く利用したものであった。