主要な脇往還には本街道に準じて常置人馬を備え、助郷の定められているものもあったが、全体的に見て脇往還の施設は貧弱であった。しかし地方の脇往還でも、米荷道、荷物街道、荷街道などと呼ばれて、継合問屋を布置し定賃金を定めて、地方物産の商品流通路として重要な意味をもつものがあった。特に中期以後は、本街道の宿駅の窮迫・通過荷物の渋滞をよそに、公用人馬の通行による妨害をうけることのない物資輸送路として盛んに利用され、また、信濃伊那街道の中馬や中奥(会津西)街道の仲附駑者(なかつけどちゃ)のように、付通しを主とする新しい馬背業者集団を発生させたところもある(郷土史辞典)。
本節においては、以上の脇往還に加えて、極めて地方的な道をも合わせ記す。
中山道宿村大概帳中津川宿の項には、
此宿往還通小坂有之 左右見渡し山□有之 此宿東町北入口飛州高山江之往還 木曽川通字上ヶ地船渡場幷苗木城下江之道筋
有之其余ハ山道・作場江出ル小道等也
飛州高山江 凡弐拾六里 濃州苗木城下江 凡壱里 木曽川渡船場上地江 凡拾八町
とある。
飛驒街道は中津川宿東端から北へ行き、妙見山の西を下って中津川を越し、木曽川に沿って下り、上地渡しで木曽川を渡って苗木城下に至る。木曽川を渡って苗木領へ入ってからは、「苗木領道程改帳」に苗木城からの里程が記され、街道の状況も知ることができる。
Ⅵ-146 上地の渡し
(表紙)「道程」 (抜)
苗木城より道筋
一 城より南尾張領 木曽川堺 上地村迠八町拾六間
一 城坂 五町弐拾間 道広五尺・六尺
一 小川橋 長五間半 広六尺、深橋下弐間半
一 木曽川 広五拾弐間 水之内四拾三間 深弐間半
舟渡し 洪水之時 舟ニても不叶
-以下略- (福岡町史史料編)
Ⅵ-147 飛驒街道略図
苗木領日比野村からは、福岡・下野・田瀬・付知・加子母・小郷の各村を通り、舞台峠を越えて御厩野・野尻・宮地・乗政・小川・森・湯之島の村々[益田郡下呂町]を縫って高山へ結んでいた。
苗木城下を通って福岡村への道筋は、Ⅵ-148図に示すものの外に、同図中の上陸(じょうろく)(丈六)から新谷へ入り佛好寺跡より麦搗川を渡り首塚を通る。緩い坂道を登り平作根の坂を下って日比野に入って井汲橋に至る。分かれて行くとちんの峠を越えて坂下村へ通じる。狩宿川を渡り神明神社の前から坂を登り八幡(やはた)に入る。八幡神社の前から西へ進み関戸川を渡り福岡村に入る道筋を言う説もある(歴史の道南北街道・県教委)。
Ⅵ-148 苗木地内 飛驒街道略図
飛驒が金森氏所領の時代は飛驒街道は江戸道とも言い、飛驒から江戸へ行く冬期の道として中山道につながっていた。「宝暦六年飛州御年貢金宿継」(付知町史)によると、高山出立が二月一一日でその夜は萩原村で宿泊、翌日から付知村、中津川宿、須原宿、藪原宿で宿泊する。江戸までの日程を知ると共に、この街道の重要性を推測することができる。
高山から中津川宿で中山道に入り江戸へ通ずる飛驒街道は役人の通行も多かった。「濃州徇行記」によると加子母村の二渡と小郷に、抜荷番所があったことがわかる。また、飛驒へ入ると道筋に口留番所があって、通行人の取りしまりと口役銀を徴収した。
飛驒街道の人馬継立は木曽川を渡った苗木領から尾張領付知村迄が一区間で、往還沿いの村々が村継によって伝馬役を勤めていた。また、瀬戸村の外五か村は助郷村に指定され、必要に応じて人馬の割当てが行われた。
…右村々之義ハ本書申上候通 高八千三百壱石之小高ヲ以 両宿へ大助郷相勤 其上飛州往還筋御継立迠仕候事故 二重助郷ニ相成 年々諸雑費相嵩ミ近年ニ至り候てハ 却て収納高ニ倍々仕如何共凌方無之 此姿ニてハ殆と亡村ニも可及かと苦心仕…(立教大学蔵・助郷)
これら瀬戸村の外五か村の村々は、幕末における飛驒街道と中山道中津川宿、落合宿の助郷免除及び軽減の嘆願書に見られるように二重助郷の負担を課せられていた。
飛驒へ向かう道は中山道を岡瀬沢[恵那市大井町]で分かれて下洗井、辻原を経て津戸の渡しへ出る道もある。木曽川を越してからは南宮神社と諏訪明神の間を通る鎌倉街道(飛驒街道略図)を通って鈴垣外の東で飛驒街道に合する。