Ⅵ-151 木曽川 瀬付名図 尾州藩大井村地方
上地舟渡について「恵那郡史」は次のように記している。
「木曽川上地の渡船は慶長中より開かれたものゝ如くである。はじめ筏にて往復したのを船に改めたのである。元和年間に至り、領主遠山氏船二艘[人船馬船]を給し、船人六人に扶持を下した。」と記している。
「濃州徇行記」の付知村の項に「上地村の渡しは木曽川の急湍なれば常に水主六人がかゝれり、水出れば八人がかりにて越す也、出水にて越なりがたき時は上地村の民家を頼み泊る事也、是は他領なれども餘儀なく滞留する事なれば先年よりためしあると也-」とある。
また、「歴史の道・南北街道」(県教育委員会)によると、天保九年(一八三八)、江戸城西丸再建の用材を搬出のため付知村、加子母村へ赴いた川路聖謨(としあきら)は、折から、木曽川が増水で渡れなく、中津川宿で六日間滞在した。五月四日に鵜舟で木曽川の激流を横断した。その際の渡しの様子について次のように書いている。
…わたしの辺に至りしに流れの末一町計末は瀧にて其かみの瀬をわたる川の早きこと矢の如にして殊に深くところところに大岩ありて白波の立さまいかにもけはしきをおもひやりぬ舟はかの鵜舟にて至而薄き板もて作たる也あまりのおそろしきけしき故長持のせてわたる様をみしに小舟に船人六人うちのり四人は棹弐人はかひ也又四人のものあさ瀬の流ゆるやかなるかたを岩のかしらを突なから川上江遙にのほりて漸に急流のなかにいたる時舟のかしらのかたを向なから弐人のものかひもて流をたたくこと三ツ四ツいたす間に矢の如くに向ふの岸につきぬその時舟ゆるき白波はつと立しさま江戸の児女にしあらは忽に胆きへ魂飛て前後を失ふへしとそみへける此川に鵜舟壱艘ならてはなし荷物を向ふの岸におくること三度にして某か船にはなりたり鵜舟へ駕をのせわさと川上のかたへ舟を傾せて乗出しかのけはしき所にてはつかなる間にありしか舟ひしひしと鳴しさま実におそるへき事也き…
上地の渡しがあった辺りは、今は大井ダムの影響を受けて川床があがり流れがゆるやかであるが、以前は普段でも急流で、少し水かさが増すと矢の様に流れが速かった。「木曽川瀬付名図」によると名前の付いた岩が川の中のあちこちにあり、うすい板の舟で、岩の間をぬって向こう岸へ行くのだから、増水の時は生きた心地がしなかったであろう。