伝播者の一人沢露川(ろせん)は各務支考(美濃派祖)にならって全国を行脚して、平明通俗な俳諧を宣伝し、「その徒に学ぶもの二千余人」と言われた。彼は正徳元年(一七一一)と享保六年(一七二一)の両度千旦林の久々利方代官越石氏邸に宿泊し、享保六年の時は中津川の連衆も交えて、重陽節の雅宴を催している(巻耳編・北国曲)。これは、おそらく当地方の人々が文芸共同体としての雅会を営んだ最古の記録であるが、残念ながら個々の作品や名前などはわからない。
享保以降各務支考の美濃派が東濃地区に勢力を伸長してきた。三世仙石盧元坊の「桃の首途」、「藤の首途」、「三顔合」には中津川の俳人も入集し、延享~宝暦年間には芦因・里仲・十八・羽考・藤朴らが活躍している。