中津川における俳諧の最盛期は寛政元年(一七八九)~天保元年(一八三〇)の四一年間であり、その中心人物は宗泉寺互融坊(ごゆうぼう)である。たまたま俳諧の良き後援者山村甚兵衛良喬(たかてる)(風兆)および資産家岩井巴文(はぶん)の協力を得て、中津川は東濃美濃派の一拠点となった。歴代宗匠は相次いで訪れ、盛大な雅会を催して門流の勢力拡張を図った。寛政五年(一七九三)には中津川緑庵連を結成して「才旦」が上梓され、文化一一年(一八一四)には信州の鳥居峠に美濃派三宗匠句碑が風兆を催主として建てられ、翌年には「山錦(やまのにしき)」が互融坊執筆によって板行、声価を天下に高からしめた。
互融坊の後継者霞外坊(かがいぼう)は病弱と併せて西国への勢力扶植に熱中し、当地における業積は確認されていない。
霞外坊の後をうけた宗泉寺花実坊は、落合の嵩左坊(すうさぼう)と扶け合って東濃俳壇を再び隆盛に導いた。特に嵩左坊は精力的に木曽谷一円より遠く越後方面まで巡杖し、大きな足跡を残している。特筆すべきものに天保一四年(一八四三)新茶屋翁塚開眼、嘉永六年(一八五三)医王寺梅塚建立がある。
幕末期においては、肥田馬風が中津川俳壇の中枢となって活躍した。彼は花実坊の文台を受け、落合の幾昔(きせき)と共に俳諧振興に貢献し、現代俳句への橋渡し的役割を果している。