美濃派の分裂と中津川

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五世以哉坊の奥羽行脚でものした松島の句を、師の五竹坊が添削したことから両者譲らず不和となったまま安永九年(一七八〇)七月に五竹坊が、同年八月に以哉坊が没し、その後継者争いから以哉派と、河村朴斎を五世とする再和派とに分裂した。これに伴って中津川の俳壇も分かれたらしく、当初は再和派と思われる芦因、藤朴らが活躍した。
 旭ヶ丘に芭蕉の<山路来てなにやらゆかしすみれ草>の句碑があり、その近くに「月石-相和庵 雪石-囲三 涼石-藤朴 木賊石-藤井氏 萩石-赤井氏 揃石-大島氏 右三ヶ国六歌仙塚 北野石室翁塚 南石室歌仙塚 天明三癸卯冬日 六尺庵主人」と彫られ、附近に点在する句碑の案内板的な「標示石」がある。萩石には<千代積んて石しととなる萩の露 (尾)也有老>と彫ってある。芦因以外の五歌仙は西生寺の檀家でこの人たちが芭蕉の九十回忌に相当する天明三年(一七八三)に横井也有の追福を兼ねて「すみれ塚」を建立したものと思われる。一説には芭蕉が「甲子吟行」で、山路を越え大津に至る道中吟じたものとされる、その風景と旭ヶ丘から見る中津川の町並が似ているところから、大津出身の菅井家の先祖が郷愁にかられて、近江八景の石彫レリーフ八基(現存二基)と共に建てたともいわれている。羽考は存命中ながら参加していないのは以哉派系だからであろうか。

Ⅶ-5 芭蕉句碑(旭が丘)


Ⅶ-6 標示石


Ⅶ-7 月石


Ⅶ-8 涼石


Ⅶ-9 雪石


Ⅶ-10 揃石


Ⅶ-11 萩石 (旭が丘)

 藤朴は通称扇屋半四郎と称し、藤先の子で別号を松風軒という。前記「奉納俳諧前句」の松朴から手ほどきを受けたものと思われる。