地元俳人の手になる紀行で一番古いのは、苗木の霞上養作(農楽軒)の「おくの関揃(せきそろ)」である。養作は、苗木家臣霞上彦四郎の弟で帰農して山平の山林を開拓した。五五歳の時、安永二年(一七七三)卯月二四日午の刻に旅に出て、木曽谷-赤坂-善光寺-姨捨山-戸石峠-上田-追分-軽井沢-倉ヶ野-日光道-猿橋-玉生-那須殺生石-白川関-松井田-碓水峠をへて、同年五月二八日未の刻に帰郷している。姨捨山での作
姨(おば)石に這ふ子預けて田植かな
は、尾花塚の墨直し句集に入集している。
養作は寛政八年(一七九六)四月一八日七八歳で没した(霞上正道氏蔵)。
Ⅶ-12 おくの関揃(霞上正道氏蔵)