以哉派の互融坊擁立

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宗泉寺一二世互融坊は前号を忘我という。美濃派七世野村白寿坊信我に師事した。寛政元年(一七八九)白寿坊が五〇歳の時、互融坊は「道元居半白の遠忌大法会」を宗泉寺で催している。その詞書は、
 
 「道元居の尊父半白の遠忌引上の大法会を遠祭し侍る。
 国々へ風薫らすや五十回   互融坊
  明け安き夜に営む寸志    白寿坊」(下略)[道元居は白寿坊の別号である。]
 
 六世大野是什坊は美濃中心に以哉派の興隆を図り、白寿坊は幕臣であったので、江戸において東武一円の勢力拡張に力を入れた。遠祭された白寿坊は、美濃への往復には中山道を利用し、再三宗泉寺を訪ねて互融坊を支援している。
 互融坊が巴文らに推されて本格的に動き出したのは、享和三年(一八〇三)宗泉寺一二世の法燈を継いだ時からである。後に仙隆和尚と称し、東円寺七世も兼ね、俳道においては 左逸・嘯和の補佐をうけ、当地方における以哉派の地固めを徐々に成し遂げた。住職としても寺に多くの功績を残すことのできたのは、俳諧を通じて木曽福島地頭一〇代山村甚兵衛良喬(たかてる)(俳号白鶴楼風兆)という立派な後援者があったからである。

Ⅶ-13 白寿坊掛軸


Ⅶ-14 互融坊 友左坊唱和歓談(宗泉寺蔵)