風兆は江戸において白寿坊と出会って俳諧に入り、更に八世岡崎風廬坊を師と仰いだと見るべく、白鶴楼の白は白寿坊より、風兆の風は風廬坊の一字を頂いたものであろう。風兆と互融坊との出合いは文化元年(一八〇四)の覚え書きのある奉書に、「互融師は予の釆邑の人として雅名久しく聞しに はからすも風廬宗匠に誘れ 木曽の幽景を探るとかやとき長月の末なん 予の別荘に招て雅会を催しぬ宗匠及ひ互融師の秀吟を得て 親しく此道を聞予も悦ひのまゝつたなき一句をおくり侍る 言の葉の句にも似しかや道の秋 風兆」とある所から明白である。この時風兆四五歳、互融坊四七歳、風廬坊は五八歳であった。宗匠とは既知の間柄であるが、互融坊とは初対面であったことが分かる。この後二人の間は親密の度を加えていった。今日残っている一二枚の詞章は、はっきりこの事情を物語っている(宗泉寺蔵)。
Ⅶ-15 風兆短冊(市岡正兄氏蔵)