花月雪句碑の建立と山錦の板行

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文化一一年(一八一四)風兆は信濃国鳥居峠に七世白寿坊、八世風廬坊、九世友左坊三宗師の句碑(花月雪碑)を建立した。

Ⅶ-16 花月雪三宗匠句碑(鳥居峠)

   華表嶺眺望
 雲ならは動きもせふに山桜     道元居(白寿坊)
 染あけし山を見よとか二度の月   以雪庵(風廬坊)
 雪白し夜はほのほのと明の山    雪香園(友左坊)
    東武閑人七十三叟白寿坊書
 
 この碑を建立するに至った事由を考えてみよう。一世より六世に至る連塔は風廬坊によって京都の永観堂に建立されていたが、風廬坊は白寿坊より早く文化九年(一八一二)に他界したため建塔もならず、心を痛めた風兆はこれに代るものを鳥居峠に建てて、七世九世には存命中の報恩を表し、併せて八世の冥福を祈ろうとしたのであろう。
 この時当地方から参加登頂した俳人は茄子川 芦夕、駒場 三寄・重侶・梅寄、手賀野 寄遊・文兮・可孝、苗木 自牧・杏佐・素鳥・三蝶・李泉、中津川 巴文・子喬・素人・順古・木佐・左逸・史仲・才我・廬玉・烏仙(うせん)・池井・噓川・和中・里津・霞柳・文社・以仙、落合 芝丘・松古・三橘・蘭二・由甫・梅子・君甫・二喬・里仙、湯舟沢 徐水・豊路で、四〇名の多きに達した。ちなみに総出詠者は七三三名である。
 建碑は九月の末であったが、風兆はこれと同時に句集「山錦(やまのにしき)」の板行を思い立ち、互融坊に執筆を委嘱した。互融坊は風兆の白鶴楼に籠ること一か月にして脱稿、文化一二年春に板行した。表紙には「信陽木曽華表嶺眺望 山錦 白鶴樓風兆編」裏表紙「執筆東濃中津川 清水庵互融坊」と記し、美濃以哉派の振興と鳥居峠宣伝とを兼ねた異色句集である。

Ⅶ-17 山錦(県立図書館蔵)

 この一大盛事のあとは以前に増して俳人客の訪れが繁く、寺務にも支障をきたすようになったので、互融坊は法燈を嘯和に譲り、俳諧一すじの路をえらび、居を清水庵に移し、句集「巣はなれ集」を物した。この時風兆より「速やかに隠遁の届を送って 風雅三昧に遊ひ玉へは いよいよ東濃の宗師なるそと 其高徳を仰き仰き且慶祝しまいらすならん
 うくひすさは耳にも入れす輿のひと 互融坊
  柳ふらつき寺のあけほの      風 兆」
という賀章をうけ、互融坊は地方宗匠の地位を確認されている。
[半素坊]寛政末頃、苗木に半素坊と称する俳人がいたが唯今のところ以哉派であること以外は不明である。寛政一一年(一七九九)風廬坊の南越行脚「夏氷集」坤巻に一句が入集し、翌一二年、可児郡塩河連の結成に当っては指南格で参与して、 前書略<早咲の梅も是より世に薫れ>と詠んでいる。また、同一三年にも<爐の炭もさりて寐にけり寒の雨  苗木 半素坊>の一句が東武白寿坊の句と共に版木に彫られている(可児町史)。

Ⅶ-18 塩河連俳諧版本(可児市)

 更に、享和元年(一八〇一)には、落合医王寺の「再建記念奉納額」にも長い前書の後に<恵み深き場(には)は芳ハし若草も  程養庵 半素坊>の一句が西濃の周路の祝句と共に末尾を飾っている。この点から見るとひとかどの宗匠格の俳人だったことがわかる。今後の研究を期待したい。