俳諧の最盛期

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文化一〇年(一八一三)に出版された「木曽街道膝栗毛」の四編で著者の十返舎一九は、中津川において俳諧に身代をすりへらす人もある当時の情況を巧みに描出している。弥次喜多道中の全編を通じて美濃派の俳諧に触れているのは此所だけである。余程その盛況ぶりに驚いたのであろう。このような繁栄をもたらした要因の一つに、豊かな財力と行動力をもった岩井巴文をあげなくてはならない。
 巴文は、岩井家五代休助將恭と称し別号を松聴園といった。その妻は肥田月狂の二女である。宝暦二年(一七五二)生まれで、風兆より八歳、互融坊より六歳年長になる。天明五年(一七八五)三三歳で家を継ぎ、翌六年山村甚兵衛より苗字帯刀を免許された。家業は酒造業である。
 蕉門美濃派では、毎年歴代宗匠の連塔に墨を入れ供養することを定例としている。互融坊が催主を許された文政三年(一八二〇)の「墨直し」には、宗師は勿論、遠く出羽(山形)、周防(山口)から雪笻仙ら七〇余名、当地方からは中津川 巴文・左逸・寿遊・文兮、落合 素涼、馬込 古狂・霞酔らが参加し、定法どおりおごそかに営まれた。
 
(前書略)  筆やみちて礼拝しつつ墨直し 友左坊
       仰けは 霞む 道の報恩    互融   (下略)
 
八句目を素涼、二一句目の花の句を巴文、終句を左逸にて五十韻を結び、これらの句を編んで板行した「庚辰墨直し」には一八〇名が入集されている。
 概して句集には特別関係の深い人のほかは前書を略するのが普通とされている。風兆は弥章に「庚辰の此春清水庵主は連塔墨直しの会主をゆるされ 花路に赴かるるにそ 東濃は更に隣れる西信の社中もこの主の風緣浅からされは いよいよ道の繁茂ならんと悦はしく さはよし代々の尊霊も存すかことくにして 嘸かしみそなはし給へと遥拝し 一章を備へ侍る 執筆も花とかほらん墨直し 白鶴樓 風兆」と認め、同杖した巴文は、「連塔墨直しの旨趣を揚けていふも更なり けふや其尊碑前に跪て報恩の香を招じ奉りて  碑の面も花も明るし墨直し  中津川 巴文」と述べている。風兆と巴文の援助を得て、この中津川俳諧史上最大の行事を無事成功させたことがわかる。
 互融坊は大役を果して中津川帰庵後、諸家持ち廻りの月次会を開くことをすすめ、社中の指導に専念した。文政一二年(一八二九)六月の天神祭には、<天満の風の香仰く天かした 互融坊>を筆頭に社中一同の佳句を奉納した。この年の暮から互融坊は病に臥し、翌天保二年(一八三一)二月、左逸に文台を預けることを約し、同月一六日、<爰去てもはや冥土へ芽出し時>と辞世を遺し、七四歳で遷化した。その後を追うように巴文も天保五年(一八三四)五月五日、八三歳で没した。
[妙見山の三人句碑]妙見山は木曽川と中津川(川上川)との合流点に位置する山で、景観もよい。この地内に、互融坊、桃与坊、輅郷の句碑かある。<一いろに詠めさたまる若葉かな 互融坊>、<雲散てあと青/\と夏の山 〓(桃)与坊>(碑陰に弘化二巳年松聴園とある)、<しらなみにはねのはへたる千鳥かな 輅郷>の三基である。このうち桃与坊の句は、句集「山錦」の巴文の句と同じであるところから考えると、風兆や他の社中が俳道に尽した巴文の功績を讃え、弘化二年の十三回忌を前に追贈した坊号であろう。輅郷は姓遠山、文久二年(一八六二)三月一一日に没した俳人である。

Ⅶ-19 互融坊句碑(妙見山)


Ⅶ-20 〓与坊句碑(妙見山)


Ⅶ-21 輅郷句碑(妙見山)