二世霞外坊

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中津川市の旧郷土館にあった文台は[現在所在不明]、鏡板が朱塗り、筆返しはなく、なまこ透しの板足がつき、裏面に、二見形獅子老人(各務支考)<二見とは松の朝日に梅の月 廬現坊写>と認めてある。この文台は風廬宗師から互融坊に授与されたものであることは、互融坊の訪客句集の中に、<出代りや楽なつとめを淋しかり  廬現坊>という色紙が残っていることから推測できる。風廬坊の代りに、宗匠補佐の廬現坊が東濃中津川の第一世宗匠互融坊へ文台を授けたという次第である。
 この文台が互融坊から央庵左逸に継承されたのは、前記「花の手向」に左逸が<酬い足らぬ恩や今年とめくれとも>の句の前書に述べているとおり、天保二年(一八三一)二月である。左逸は天保五年より霞外坊と称え、地元よりむしろ西国、特に周坊・長門・長崎への勢力扶植に熱意を燃やした。また、生来病弱でもあったらしく、しばしば郷里の紀伊に帰って暮している。これらの事情が絡みあって霞外坊の中津川宗匠としての業績はほとんど知られていない。姓名も生い立ちも詳かでない。
 山村甚兵衛風兆筆の「中津川滞留日記」によれば、霞外坊が西国経回の旅に出たのは天保一一年(一八四〇)三月一八日となっている。天保一三年に帰ったがそのまま病床に臥し、翌一四年五月二三日に没している。